大学時代~社会人としてスタート
大学の観光学科で学んだ後、東京の大手観光会社に就職
小学校の頃から自転車で海に出かけるなど、もともと“旅好き”だったこともあり、高校卒業後は立教大学の社会学部観光学科へ進学しました。大学時代は探検部のサークルに4年間所属し、洞くつ探検やラフティングをしたり、エジプトや東南アジアの国々を放浪した……いま振り返ると、自分の中に衝撃を与えられるような、非日常の体験を求めていたんだと思います。
また、自分が本当にやりたいことは、実際に社会へ出てみないとわからないと思っていましたので、就職活動では会社の名前にこだわらず、幅広い業種の企業を回りました。
そして、最終的に内定をもらった数社から、まずは大学で学んだ観光関係の業界を知ろうと「森ビル観光株式会社」へ入社。ホテルや予約センターで現場業務を経験した後、総務部文書担当に配属されました。稟議書の作成・チェックなど、緻密な文書を扱う業務はあまり得意ではありませんでしたが、社会人として学ぶことはいっぱいありましたね。
たとえば、上司や決裁者が納得する文書を上げる(質問にも的確に答える)ためには、その内容を自分の目で見て学んで、起案内容を理解しておく必要があります。そうした一連の業務を通して、会社や社会の動き・仕組みを学ぶとともに、社会人になるためのトレーニングをさせてもらったと感じています。
次なるステップへ
大学院時代の研究活動・出会いがきっかけで新天地へ
ただ、会社で働きながらも「自分が本当にやりたいことは何だろう」「次はどうしようか」……といつも考えていました。その中で、「国際開発や国際協力など海外関連の仕事がしたい」という思いが次第に強まり、次なるステップを求めて同社を退社。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科(国際関係学)へ入学し、「持続可能な発展プロジェクト研究室」でエコツーリズム(地域に根ざした個人ベースの旅)の研究に携わりながら、エコツーリズム推進協議会(現日本エコツーリズム協会)のボランティアや環境関連の文献研究をする日々を送りました。
また、エコツーリズム推進協議会の活動を通して出会ったのが、「ホールアース自然学校」創設者の広瀬敏通氏です。広瀬氏は同協議会のメンバーとして、エコツーリズムの推進に全力を注いでおり、私自身も共感する部分が多くありました。その出会いがきっかけで、2年次からはホールアース自然学校のインターン生として現場経験を積ませてもらい、大学院卒業後はそのまま同社に入社。結婚したばかりの妻とともに、活動拠点(本校)となる静岡での新生活がスタートしました。
経営が近い/30代前半~
現場業務に携わりながら、スタッフをまとめる事務局長に
ホールアース自然学校へ入社した当初は、地域の自然体験を提供するネイチャーガイドや、各種プログラムの企画・運営、広報などの業務に携わりました。また、入社して3~4年目からは現場スタッフをまとめる事務局長の任に就き、地方出張が多い代表(広瀬氏)の留守を預かり、他の役員と共に組織運営や雑多な業務調整に日々奔走していました。
その当時はスタッフの在職期間が短く、3年~5年でメンバーが入れ替わるような状態が続いていました。スタッフが定着しなければ、仕事の質も高くなりません。そんな日々の中で見えてきたのは、会社としての組織作り・仕組み作りの重要性です。多様な価値観を持つスタッフが、一つの方向性を共有して仕事を進めるためには、会社としてスムーズに機能する組織を作るとともに、スタッフ個々のポジショニングや方向性の確認が必要だと感じました。
経営が近い/30代後半~
会社の組織作りとともに、地域型観光の新規事業を展開
ホールアース自然学校は、もともと地方にある小さな組織ですが、地方にあるからこそ都会の大企業に負けない組織にしたい。Iターン・Uターン就職で「それなりにやって暮らせる」組織ではなく、一人ひとりの能力がきっちりとかみ合って、高いパフォーマンスを発揮するような組織にしたいという思いが根底にありました。
ホールアース自然学校は1982年に代表が創業した歴史ある学校ですが、その理念や伝統を受け継ぎつつ、代表に頼らずとも会社(組織経営・運営)がスムーズに機能するようなシステム・戦略が必要だと考えました。
まず、スタッフ自らが組織の方向性を考え、皆が働きやすい職場を作ること、給与などの待遇面を含めて将来を描ける組織を作ること。そのために、一人ひとりの人材が高いスキルやノウハウを身に付け、仕事の質を上げることを目指しました。
また、トップダウンで与えられた仕事に向き合うだけでなく、主体的に仕事に取り組むために、いくつかの新規事業を開始しました。私が担当したのは第3種旅行業の登録や健康増進プロジェクト、少人数制富士登山ツアーの企画、溶岩染め商品の開発等です。
別法人の会社設立へ
組織内で独立して別会社を設立。農場の経営へ乗り出す
こうして、新規事業展開の一貫として着手したのが「農業生産法人の経営」です。やがて代表の廣瀬氏から奥様に代表権が受け継がれました。以前から同じ役員の仲間たちと「次の世代はどうしようか」と話をしていましたが、今こそ世代交代に自らチャレンジするときだと思ったのです。
家族経営の場合は特に、設立者の会社に対する愛着は強いですが、現代表も新しい挑戦を積極的に後押ししてくれています。既存の組織を作り変えるのではなく、自分たちで違う何かを作って、それが成長して従来の事業と肩を並べて、いつか事業の柱になる。そんなプロセスの実現ならば、ひとつの世代交代の形としてありだと思いました。そこで2011年11月、静岡県富士宮市の本校の一角に「農業生産法人・株式会社ホールアース農場」を設立しました。
理想が近づく
自らが農業者として自立し、農業の在り方そのものを変えたい
農場を設立してからは、まさに農業一色の日々。単なる「農体験」というスタンスではなく、自分で種をまき、世話をして、収穫し、販売する。農業未経験の初心者(非農家出身・農業経験ゼロ)ながらも、日々試行錯誤と失敗を繰り返し、「業」としての「農」の在り方を追求する毎日を送っています。
ただし、自分で農業をやること自体を目標にしているわけではありません。まずは自分が農業者として経済的に自立した上で、地域に移り住んできた人が、農業で無理なく食べていけるようなモデルを作ること。他産業との連携による6次産業化や食農分野での環境教育プログラムの企画・提供など、米や野菜を作るだけの従来型農業の枠を超えた発想力と実行力が有れば、十分に可能なことであると思います。
たとえば、農場の野菜を使った「出汁パック(名称:海と畑のブイヨン)」もそのひとつ。これは、静岡のかつお節メーカーとコラボして開発した新商品で、この4月から販売が開始されます。将来的には、農園を併設したキャンプ場の運営などのアイデアも温めています。キャンプに来た人たちが畑で自由に過ごしながら、思い思いに野菜を採って食べられる……そんなイメージです。
農場設立から6年目を迎え、現在は年間約80種類の米・野菜を生産するまでに至りましたが、まだまだこれからです。事業として成立させるためには、あと数年は必要かなと感じています。
もちろん、農作物の生産・販売だけが私たちの仕事ではありません。国内農業の後継者不足や農地荒廃が危惧される中、社会のさまざまな主体とつながって、より発展的に、より柔軟に、農業の在り方そのものを変えていければと思っています。
地域とつながる
地域とつながりながら心豊かに暮らし、目標に向かって働く
「東京から地方に移り住んで収入は減った?」とよく聞かれますが、私の場合はそれほど変わりはありませんでしたね。昇級するにしたがってむしろ増えましたし、家賃なども安いので(一軒家で月に4~5万円)、都会に住むよりも経済的にはラクです。
東京と比べても生活環境の面で不便は感じませんし、横浜出身の妻もパンや焼き菓子を販売しながら地元の方々との繋がりを増やしています。農場からは雄大な富士山も間近に見えますし、2人の娘たちも自然に恵まれた環境の中、のびのびと暮らしています。ノビノビしすぎて、のんびり屋の面もありますが(笑)。
また、農場を設立してからは、地域の人たちと接する機会が増えましたね。一般企業の場合、地域との接点はあまりありませんが、農業、特に田んぼは“水”を共有しますから、地域との関わりが必須です。田植えの合間に隣の田んぼの人と世間話をしたり、近所の農家と情報交換したり……地域の皆さんとコミュニケーションしながら、日々の農作業に励んでいます。そうした中で、将来を担う農業の新しいシステムを模索しながら、大きなうねりとして広げていくことで、地域社会に貢献できればこれほど嬉しいことはありません。
農業生産法人・株式会社 ホールアース農場
代表取締役
平野 達也さん
1972年千葉県生まれ。95年に立教大学社会学部観光学科卒業後、森ビル観光株式会社(現・森トラスト・ホテルズ&リゾーツ株式会社)入社。97年同社を退職し、98年に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科入学。在学中、大学院のゼミでエコツーリズムを研究するとともに、財団法人国際観光開発研究センター客員研究員として、環境関連の記事を機関誌に寄稿。2000年に同校を卒業し、静岡県富士宮市に本校を置くホールアース自然学校に入社。11年、農業生産法人・株式会社ホールアース農場を設立する。妻と2女の4人家族。