昔は“たわし屋”として見られることが嫌でしかたなかったという、高田大輔さん(36歳)。和歌山県海南市で、たわしを中心とした家庭日用品をつくり続けている高田耕造商店の長男として生まれ、今や希少な三代目後継ぎとして、産地をけん引しています。かつては調理師として、自分のお店をもつことが夢だったと話す高田さんが、後を継ごうと決めたきっかけとは。そこには家業を自分の生きる道として腹落ちさせた高田さんの過去がありました。
たわしが嫌で、志したのは調理師の道
たわしの産地といわれても、ピンと来る方も少ないかもしれません。その多くは海外製が流通するなか、国内では実は和歌山県が、たわしをはじめとした家庭日用品の産地。なかでも海南市周辺はかつて、たわしやほうき等に用いられる素材、シュロ(棕櫚)の一大産地でもありました。戦後、海外からパーム(ヤシの実)製の安価な輸入品が入るようになって以降、一気にシュロの産地としては衰退の一途を辿ることになりますが、高田耕造商店は1948年に創業以来、一貫してたわしを中心とした日用品をつくり続けてきました。
そんな家系に長男として生まれた高田大輔さん。昔から友達が家に遊びに来るたびに、家に転がっているたわしを見て「お前んちたわし屋みたいやなぁ」といわれることが嫌で仕方なかったといいます。
「そんな感じでしたから、高校の進路選択の際には、いち早く別の道をということで、調理師の道を選択しました。将来、自分の店をもって独立してやろうと考えて。親父からも一言も継いでくれといわれることはありませんでしたからね」
こうして高校卒業後、大阪の辻調理専門学校へ進学。卒業後は、数々の飲食店で修業を積んでいきました。和歌山に戻ってからも、地元で評判のお店で働き、キッチン・ホールと飲食店の一連の動きは経験させてもらったと話す高田さん。しかし、飲食業が自身の性に合っているのかというのを、ずっと疑問に感じていたといいます。
「料理で正解が分からなくなってしまって…」
実はとても几帳面で凝り性な性格の高田さん。季節や産地によって異なる食材を、人の好みや流行に合わせて提供していく仕事に悩まされ、自信をもてなかったそうです。
そんななか、オーナーシェフとの方針のズレがきっかけで、お店を退職。それは飲食の道を志して約7年経った、25歳のときでした。
実家に戻り、自分の運命を悟る
「実家に戻って事情を母親に説明すると、『そんな、お店にも迷惑かけて! お父さんにも怒られるで!』とあきれられました。そりゃ無理もありませんよね。調理師になるために、いくら費やしてくれたんだって…」
翌日の父親との面会に向けて、その晩は眠れなかったそうです。しかし翌朝、父親と顔を合わせるや否や、「行くぞ」と外へ連れ出されます。向かった先は、当時のお得意先への挨拶まわりでした。
「怒られると思ってましたから、正直、驚きましたよね。得意先にも『息子が帰ってきたから、よろしくお願いします』って。まだ一言も後を継ぐとかいってないんですよ(笑)」
それでも、行く先々で「希少な後継ぎが帰ってきてくれた」と歓迎されたことに、だんだんと自身の使命を自覚するようになっていった高田さん。極めつけは、その日の最後に病院にいる祖母の元を訪ねたときでした。
「ばあちゃんに『よう戻ってきてくれた。おじいちゃんもきっと喜んでいるに違いない』そういわれたんです。もうこれが自分の運命なんだな、と思わざるをえませんでした」
こうして高田さんは後を継いでいくことを決意。家業に専念していくことになるのです。
地元の宝に気付き、産地の復活へ意気込む
家業での初仕事は、「たわしストラップ」を和歌山県内のお土産屋さんへ売り込む営業でした。前述の通り、几帳面で凝り性な性格の高田さんは、事前に相手先のことを調べ、確実に扱ってもらえそうな先をリストアップ。10件中8件営業を決めるなど、好成績を収めます。しかし、2件断られたことが悔しく、その内の1件にいわれたことにショックを受けたといいます。
「この素材ってどこでつくってんの? 中国? 中国でつくってんのに、なんでこんな高いん?」
当時、加工は自分たちで手掛けていたものの、材料であるシュロまでは中国産を仕入れていました。しかし、その言葉をきっかけに、高田さんは素材にまで興味をもち始めるようになります。
そして、あるとき、近所の山でシュロらしい木を発見。
こっそり木の皮をめくって実家にもち帰り、父親に見せると、「はぁ~、これがシュロか」という反応でした。この反応が物語っている通り、当時、材料は仕入れるのが当たり前の時代。よもや和歌山県がシュロの産地ということも忘れ去られているような時代でした。
これなら中国産と馬鹿にされることもなくなると、試しにそのシュロを機械にかけてみると、途中でプチプチと切れてしまいました。
「なるほど、日本のシュロはあかんのやな。中国産のシュロのほうが質が良いから、忘れられてしまったんや」と感じるほどだったそうです。
それからしばらくは、国産のシュロには目もくれず、素材としてのシュロの特徴を生かした商品開発に取り組みます。その過程で生まれたのが、今も代表的な商品である「シュロのボディたわし」でした。
強くて硬いパーム(ヤシの実)に比べ、繊維が繊細でしなやかなシュロは、使い心地が気持ちよく、対象物を傷つけにくい素材。そういった意味ではテフロン加工のフライパンはもちろんのこと、人肌にもうってつけの素材でした。
さまざまな人との出会いのなかで生み出すことができたヒット商品と話す高田さんですが、そんな折、問屋経由で国産のシュロがまだ残っている、という話を耳にします。そこで出会ったのが、シュロを縄に加工する、西脇直次さんでした。
「西脇さんがもってきたシュロ、これが今まで見たことのないようなシュロだったんです。実際、機械にかけても問題なし。明らかに中国産よりもしなやかでした」
それこそが紀州、和歌山県産のシュロでした。シュロ産業で栄えてきた海南市も、昭和30年代を契機に衰退の一途を辿り、その頃にはシュロ皮を採る職人は数えるほどしかいないといわれていましたが、まさに西脇さんがその一人だったのです。
西脇さんに連れられて近くの山に行ってみると、そこには見たことのないようなシュロ山の光景が広がっていました。後日、大好きな祖母と車で近所を走っているときに、シュロを見ていわれたある言葉に、はっとさせられたといいます。
「シュロのおかげで、おばあちゃんは髙田家にお嫁にこれたのよ」
家業の原点、すなわち自分のルーツにあったシュロの存在。
「そのとき、シュロ山を守ることが、自分のやるべきことだと思ったんです。紀州産シュロに絞って商品をつくり、シュロ山を再生しよう」
そのとき、高田さんは31歳でした。
シュロに魅せられ、シュロに賭ける
それからというもの、仕事は全てシュロ関係のものにだけ絞り込んでいきました。相当な売上規模で、家業を支えてきた下請け仕事も、大部分を断ったんだそう。そして、紀州産のシュロを使ったたわし製品の開発・生産に勤しみ、満を持して東京の展示会へと打って出るのです。
「ものすごい引き合いがありました。東日本大震災の後ということもあって、地方の産品に目を向けようという機運が高まっていたこともあり」
手ごたえを感じた高田さんは東京に事務所も構え、1年間ひたすら営業に邁進します。しかし、結果、取引はほぼゼロ…。あれだけ感じた展示会での手ごたえもどこへやら。その年の決算は見たこともない大赤字という事態に陥っていました。
「結局、足元を見られてたんですね。受けきれない発注単位や、無茶な値引き要求など。どれも手仕事では手に負えないものばかりでした」
途方に暮れるなか、工場を訪ねてきたとある人からの一言が、高田さんを奮起させたといいます。
「自分ら、米つくってるやん!」
工場で大量に積まれたシュロの原料を見て、その人はこれらがあるんだから喰っていける、と励ましてくれたのです。
「まずは自分たちが喰っていかな、シュロ山の再生なんて夢のまた夢。とことん攻めたる!!と腹をくくりましたね(笑)」
以来、紀州産はもちろん、中国産も含め、シュロの良さを生かした製品開発・生産に邁進。それ以外にも、さまざまな商品企画にも取り組み、工場一丸となって働きました。
その頃、東京で撒いてきた種も芽生えはじめ、事業はだんだんと軌道に乗っていきます。商品も紀州産と中国産のシュロの特徴をキチンと説明することで、お客さんに選んでもらえるような構成にしました。
「いくら国産のシュロのほうきが良いといっても、5万も6万もしたら掃除機買う?ってなりますよね。日常使いには手頃な中国産、体を洗うのにはしなやかな繊維の紀州産と、お客さんに選んでもらえればいいと思えるようになりました」
それからがむしゃらに働くこと3年。結果、直近の決算では、シュロ関連の売上が全体の半分を超えるほどにまで成長。2017年には、和歌山県が認定する「プレミア和歌山推奨品」に「紀州産からだ用シュロたわし檜柄」が最高賞である審査委員特別賞を受賞しました。高田さんが家業に戻った当初は、「たわし?シュロ?紀州産?」と言われていたものが、今や和歌山県を代表する産品になったのです。
なりゆきのまま家業に戻り、今や家業が自らの生きる道となった高田さん。ここまでを振り返り、自身の生きがいを見つけるために大切なことは何かを伺いました。
「まずは今、自分が置かれている境遇に真正面に向き合うこと。それに本気で取り組んでみて本腰が入らないようであれば、それは自分の性に合っていないかもしれない。ただ、本気で向き合えば、次のめぐり逢いが必ず待っている。そう思います」
自分自身の生きがいというのは、意外と自分の身近なところにあるものなのかもしれません。そのためには一度、“真正面”から“本気”で向かい合ってみることが必要なのではないでしょうか。