宮古の食を全国へ!「イカ王子」地域の水産事業の活性化に奮闘
共和水産株式会社 代表取締役専務 鈴木 良太さん(イカ王子)
BizReach Regional
2017/10/11 (水) - 08:00

東日本大震災を機に一念発起し、会社の再生と水産事業の復興、自らイカ王子と名乗り、イカ王子ブランドの商品を販売すると同時に、SNSやTV等で「三陸宮古」の食文化を発信。宮古市の水産物のブランド化にたちあがった「イカ王子」の活動と未来への展望を伺いました。

宮古の食を全国へ!地域と水産事業の活性化をめざしてイカ王子が立ち上がった

――まずは共和水産のこれまでの事業について教えてください。

昭和60(1985)年の7月に父が創業し、私が二代目となります。実は、共和水産は元々、建設会社だったんです。大成建設の出身で一級建築士の資格を持つ父が、独立して地元の宮古市で建設会社を開業したところ、父の兄、つまり私の叔父が、気仙沼市の水産会社を辞して、宮古市で新たに水産業を始めたいということで、父の建設会社の倉庫を改造し、兄弟で水産事業を始めたのです。それが共和水産を始まりです。
宮古港に水揚げされるイカやサケなどを加工して販売するところからスタートしました。
建設会社のほうもまだ続いておりまして、今は父が一人で運営しています。

――鈴木さんが共和水産で働き始めた時期や経緯についてお聞かせください。

実は私は大学を中退していまして。仙台の大学に通っていたのですが、飲食関係に興味があり、1年次から国分町という繁華街のダイニングバーで夜働いていました。在学中はアルバイトでしたが、中退して正社員になりました。仙台は学生の多い街で、客単価が安く、その分回転数もあげないといけない。当時はまだ、いわゆる客引きも大丈夫な時代だったので、店頭での客引きも頑張りました。また安い客単価を100円でも上げるために何をするかといったところにも知恵を絞りました。一方で、アルバイトのシフトを決めたり、料理長と一緒にグランドメニューを考えたりなど、店舗の運営に関してさまざまなことをやらせてもらいました。今思えば、モノを売る根幹となる販売や商品開発の部分を、実践的に学べたように思います。白ワインを飲んでいるお客さまにどんなお料理を勧めるか?日本酒の今のトレンドは何か?といったマーケットに関しても、肌で感じ吸収することができました。
そんな折、親族や家族の間で、どうやら私が国分町でホストしているらしいと噂になりまして。田舎では、夜の仕事=ホストなんです(笑)。当時の私は、鼻と耳にピアスもあけていて、少々ファンキーだったこともあるのかもしれません。共和水産の後継問題で、「あいつはフラフラしているし、商売っ気もあるからやらせてみようか」という話になり、それが戻るきっかけとなりました。今から12年前ぐらい(2004?2005年頃)、私が23~24歳の頃です。

――その当時、都会から地元に戻る意思決定は大変だったのではないですか?

その頃の私はといえば、まだ都会のカッコよさに憧れているところがあり、正直、絶対宮古には戻らないと思っていました。夢も希望もあり、やりたいことも毎日かわる。こういう職もいいな、ああいう職もいいなと思っていたのです。ですので、体は宮古にいても、心ここにあらずといった感じです。父の会社ということもあったので、それなりに働いて、いつかまた宮古を出ようとすら考えていました。刺激がなく、ファッション、音楽、食に関してもすごく遅れているような気がして、ここは自分がいる場所ではないと感じていたのです。仕事を楽しむというよりは、ただこなしている毎日でしたね。
そんな私の心が動いたのは、実は東日本大震災の後なのです。

――震災を機に、どのように考え方が変わられたのですか?

変わったというか、震災前からくすぶっていたものが自分の中にあったのでしょうね。何かやりたい気持ちはあるが、何をやればいいのか分からない。会社というよりも鈴木良太としてこのままで終わりたくない、そんな火種のようなものをずっと抱えていたように思います。とはいえ、人が変わるのは環境の変化など大きなきっかけがないとなかなか難しい。それが震災だったのです。
共和水産は、大鎚地区にある倉庫が被災し1億3000万円分ぐらいの製品と原材料が津波で流出してしまったものの、工場や設備機器、人的な被害は受けずにすみました。

しかし、亡くなってしまった友人や、津波で流されて倒産せざるを得ない状況になった会社を目の当たりにして、とにかく生きること、仕事ができることの価値を思い知ったのです。この地域を立て直していく中での大きな発信を、自分が渦を巻きたいと思いました。宮古は岩手の沿岸では一番人口が多いのですが、三陸の中ではあまり知られていない存在です。今、自分はここにいて、ここで商売をしていて、急に大きな借金も増えた。純粋に一から楽しんで商売を再開できるのではないかと思いました。
また一方で、改めて水産業全体を見た時、高齢化や後継者問題に加え、水揚げ量の減少や温暖化の影響が顕著になってきています。多くの課題を抱える今だからこそ、まだ若い自分が旗振り役となる意味があるのではないか。それを信じて業界に尽くしてみるのもありなのではないか。インフラは作れないけれど、きっかけを作ることは私にもできるはずです。きっかけがなく、くすぶっていた自分自身を知っているだけに、この場所、このタイミングで、人々の着火剤になれればいい。そんな考えが自分の中に生まれたのだと思います。

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――具体的にどのような活動されたのですか?

まずは、震災前までは共和水産のホームページがなかったので、すぐに立ち上げて、そこで「イカ王子」のブログを発信しました。「イカ王子」は自称と言ってはいますが、ある人からそう呼ばれたのがきっかけです。鈴木良太だと発信しづらい内容も、イカ王子だとなぜかすんなり言えてしまう。覆面レスラーのような感じで、時にぶっきらぼうな喋り方をしたり、熱い想いを述べたりということが非常にしやすいというメリットがありますね。ブログだとなお伝わりやすく、読んでいる人も面白がってくれたようです。それがある時Yahoo japanさんのネットショッピングに声をかけてもらうことになって。「私はイカ王子という名前でやっているんです」と話したところ、「それいいね!」と盛り上がり、「イカ王子が作った真イカぶっかけ丼」というのを発売しまして、総合ランキングでいきなり3位、食部門では1位を獲得したのです。1位がミネラルウォーター、2位がUSB、3位が「イカ王子が作った真イカぶっかけ丼」という、よくわからないランキングでしたが(笑)、その時、宮古はその話題で揺れました。
それが2011年のことですが、2012年、2013年も3月11日なると、イカ王子のアイコンがトップページに表出して、さらに売れる商材もでてきました。30代で面白いことやっている奴がいると話題になり、TVや新聞からは宮古の水産の「異端児」ということで取材を受けるようにもなりました。

業界全体を盛り上げる活動としては、私が会長を務める「宮古チーム漁火(いさりび)」(以下漁火)があります。漁火は、私と同年代の2代目、3代目の同業の若社長たち4名とともに、震災後すぐに活動を開始しました。漁火が脚光を浴びるようになったのは2年前からですかね。復興庁から呼ばれて、竹下復興大臣(当時)から顕彰状も頂きました。被災地のグループのなかで、最も成功したグループとして、トップバッターとして選ばれたのです。

――漁火には4名の方がいらっしゃいますが、それぞれの役割分担を教えてください

私が営業と企画、「かくりき商店」の小堀内さんが財務・会計。「佐々京商店」の佐々木さんが買い付け、「佐幸商店」の佐々木さんが生産管理です。4社とも水産加工業ではありますが、鮮魚出荷が中心の会社や、原材料の魚を急速凍結する冷凍業など、仕事内容も得意分野もまったく違っています。うちの会社はイカの最終加工をメインとしていますが、大船渡や石巻にあった協力会社の工場が被災してしまい、自社工場が稼働していても仕事はまわらない。そんな時に、かくりき商店の専務と出会いました。やはり状況はうちと同じでした。食品の場合、たとえ工場が復旧しても品質管理などクリアしなければならない問題がいろいろあるのです。お互いの話をするうちに、ない部分を補填し連携することでWIN-WINの関係が構築できるではないかとなって。またその連携を宮古に限ることで、輸送コストの節約につながるだけでなく、宮古のイカ、宮古の魚、といったストーリー性が生まれ、商品の付加価値が高くなるのでは、と気づいたのです。他の2社も加わり、まずは生産工程を分業し、それぞれの販路を共有することから始めました。4社で連携をすることで、なんと売上は震災前の3倍に。取引先からしても「今までイカだけだったけど、イクラもウニも、タラもサンマも出てくるね」と喜んでもらえて。弊社の取引先である生協さんやJAさんにも漁火のメンバーの商品をどんどん広めていくことで、さらに販売先を紹介してもえるなど、逆境から生まれた逆転の発想で、いろいろなことがまわりはじめました。

――売上が3倍になった成功のポイントはどこにあったのでしょう。

うちは、最終の末端商品を作っているので、宅配向けなどの販路で売ることを得意としています。魚を仕入れや輸送のための加工は、できればどこかに任せたかったのです。ものづくりの最終工程と販売に専念することで、役割がクリアになりその分野により強くなれる。震災でゼロベースになったのであれば、得意なことに特化して、それを伸ばそうよということを最初に握りました。原料の買い付けは他のメンバーに任せ、私は販路の開拓をどんどんやっていく。この生産と販売の協業がうまくまわったことが大きかったと思います。
また、普段ならば共有しあわないであろうお金の話もオープンにしました。「ごめん、売れなかった、値段どうにかならない?」「うちでやれるけれど値段こうね」など、見栄をはらずにお金を回転させることで、無駄を省くことができました。
私たちは年齢が近いのと、2代目など次の世代なので、お互いの悩みも共有しあうことができたのもよかったですね。負の部分を出し合うことで、それぞれの光るものが見えてくる。やりたいこともそれぞれにあって、実はそれが企業の利益体質につながっているのだと思います。「それ100しかできないなら、4社で400やろうよ」「そのシェア取りにいこうよ」と話がどんどん膨らんで。成功の土台というものがあるとすれば、お互いの壁をとっぱらって、目的やビジョンを一つにできたことにあるのではないでしょうか。

――漁火としての苦労話などがあれば、おきかせください

私は、年齢的に4人のメンバーの中でも3番目なんですが、まとめ役という役目があって(笑)。殿様方をコントロールするので、それはまあ大変です。それぞれに行きたい方向がある。でもパワーがあるんです。私はこうしたいという意志が強いぶん、絶対曲げなかったりするので、私も熱い思いでぶつかっていかないと、なかなか折り合いがつきません。でも、きちんと腹を見せ合い向き合うことで相手も納得してくれる時もあるので、大きな問題もなく落ち着いています。もともと4社でやったきっかけは、漁火の発展を目的としていた訳ではなくて、それぞれの会社が良くなるために協業ができるといいねというところから始まっていたのです。もし、漁火が重くなってきたら、その時は止めようと、話しています。この辺りも感覚が若いのかもしれませんね。ドライというか、こんなに有名になったのに簡単にやめるんだと周囲には驚かれもしますが、1社1社がまた新たな輝きを発しながら事業を継続することが大切だと考えています。

――漁火はこの先メンバーを増やしますか?また、今後めざすところがあれば教えてください

メンバーを増やすことは考えていません。お陰様で漁火が脚光を浴び2?3年前から「漁火」が一人歩きしてしまっている感じは受けていました。それでも何かのイベントや、グループの話、工場見学などがあるとこのようなチームがあると便利なんです。とはいえ、自分たちがやりたいことと、外から求めているものとは微妙に違うようで、華々しく何かをやって、メディアやいろんな所に出ていこうというのを求められている気もしますが、私たちの本業は、魚を使って商売していくこと。そこは、ある程度線引きしていかないといけないですね。
売上の数字以外でいくと、この宮古だけでいうと水産業で何かある時には、パッと集まれるようなチームであり続けられればいいかなと。それって組合とかそういう重いものではなく、現場の声が最短距離で届くツールのような存在です。漁火がそんなツールになるのが理想です。次の若い世代の人たちが、漁火をめざしてやってきてくれるような、それこそ?カッコイイ水産“みたいなものを描いて発信していけるといいですね。そのためにも、4社の業績がもっと良くなっていくことを第一に考えています。

共和水産株式会社

創業1985年。岩手県の宮古港に水揚げされるイカを原料に、イカソーメンを始めさまざまな加工商品を製造・販売。東日本大震災後、地域の復興をめざして、地元水産加工業者4社で“宮古チーム漁火”を結成、販路の拡大と新規顧客獲得、商品開発等を協業することで地域活性を担う。また、自らを「イカ王子」と称し、ネット販売を通じて一般消費者への商品認知アップと地域発ブランドの確立をめざす。

住所
〒027-0021 岩手県宮古市藤原二丁目3番7号
設立
昭和60年7月
従業員数
48名 ※平成28年4月30日現在
資本金
1,600万円
企業HP
http://www.kyowa-suisan.co.jp/

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