天然の染料で染められたアルミ板から、食器や花器などを一つ一つ創りあげる「草木染金属工芸」。無機質な素材と自然の色彩を融合させた、世界で先例のない手法で生み出す作品は、息を?むような白銀の世界と、緑豊かな棚田と山々に囲まれた暮らしのなかで静かに息を吹きこまれ、全国各地へと届けられています。
日々の暮らしのなかで生み出される「生活の道具」
作家活動をはじめた2010年からすぐ、牧野広大(まきのこうだい)さんの作品は、毎年のように国内外のコンペで受賞し、その芸術性の高さと食器や花器といった「道具」としての価値の高さも話題となり、作品は口コミや紹介で全国へと拡がっていきました。
個展のほかに、大丸東京では常設の企画展、新宿伊勢丹や東京ドームでは催事やアートイベントとして、牧野さんの作品が並んでいます。飲食店などからは、器の大量注文を受ける仕事もあります。
数ある賞のなかでも主な受賞としては、2011年「雪のデザイン賞」で銀賞(国際コンペ)、2013年「高岡クラフトコンペ」で優秀賞、同年「テーブルウェア大賞」では佳作&宮田亮平審査員賞などを受賞していますが、工芸家の方であれば、知らない人はいないというほど有名なコンペでの受賞です。
牧野さんの作品は、アルミニウムで形成された食器や花器、アクセサリー等のほかに、鉄や銀、銅、真鍮、ステンレスなどを使った、ワインラックやシャンデリア、テーブル、看板、ポスト、表札など、とても多くの素敵な「生活で使われる道具」が数多く存在します。
芸術的な見た目の美しさだけではなく、「モノ」として人が使うための機能性、そして、そこに暮らす人の“生活の風景”そのものが思い浮かぶような、なんともいえない温もりを感じる作品ばかりです。
「生きる活力」と、人のために存在する「モノ」としての工芸
ちょうど東日本大震災が発生した2011年3月の前後で制作したという、「雪のデザイン賞」を受賞した作品も、「雪の現象」をテーマにした作品。これは、雪のない地域の人が想像で創る作品とは違い、まさに雪国の中で日々生活をする人にしか表現・創造できない観点が評価された作品でした。
雪の怖さ、重さ、大変さ…綺麗だけではない、そうしたものを肌で知っているからこそわかる感覚。
震災直後、自分の創る食器は、生きることで精一杯のはずの被災した方にとって何の意味があるのか?と自問自答するなか、宮城県のギャラリーで出会った被災者が 「もう何も要らないと思ったけど、この器は買う。使いたい。」と、1個3000~4000円する作家物の飯碗を購入する姿に、牧野さんの迷いは消えたそうです。
自分たちが創るモノは、「元気になりたい!」と“生きる活力”を求める人々の支え、心の復興に繋がるのかもしれない! そんなふうに感じた出来事でもありました。
ファッションであれ、食事であれ、音楽であれ、器であれ、人は「より、美味しい!」、「より、楽しい!」と感じることが、生きる楽しみや希望となり、人を立ち上がらせる原動力になっていく。
そんな“役割”を、自分たちが担えるなら嬉しいし、この仕事を続けていく価値は充分にあると思う、と。
山形県朝日町の廃校で生まれる、ここにしかない工芸作品
工業が盛んな愛知県豊橋市で生まれた牧野さんは、山形県山形市にある東北芸術工科大学・芸術学部美術科工芸コースに入学、金属工芸専攻に進み、同大学院を修了することになります。
学生時代に、廃校となった旧立木小学校(山形県朝日町)を拠点に活動する「あとりえマサト」と関わりはじめました。卒業後、この地域で暮らすことになるのですが、学生時代から町の人に徐々に馴染んでいったこともあり、ここを生活拠点にし、仕事をはじめたそうです。この地域は、冬は雪が2メートルも積もる豪雪地帯ですが、わざわざこの厳しい地域を、生活と仕事の拠点にしたのは何故だったのでしょうか。
暮らしに“負荷”をかけないと、モノは育たない
「自分は暮らしに負荷をかけないとダメなんだと思う。なんでもある環境では“モノ”を渇望する気持ちが湧き出てこないんですよ。雪は大変だけど、冬に雪があることで、そのぶん春の喜びは大きいし、毎日美味しいものばかり食べていると、だんだん普段の食事のありがたさがわからなくなる。なんでも緩急とか、メリハリが大事じゃないですか」
数年前、初めて牧野さんの作品に出逢ったときも、今回の取材でお話を伺っていても、単に作品の美しさだけではない、何か説得力のようなものを感じたのは、こうした根底にある「生き方」や、物事に対する姿勢、人に対する敬意が、自然と作品にも表現されているからなのではないでしょうか。
アートや工芸ってなんだろう? をずっと問いつづけていたい
――牧野さんの思う「工芸」ってなんですか? アートとは、また別のものでしょうか?
僕は、あんまり“アーティスト”だっていう自覚はないですね。
僕は“工芸”をしているので、「暮らしのなかのもの」を創る職業だと思っていて、“アーティスト”って呼ばれているときは、なにか理解できないことをやっている、よくわかんない人、と思われているようだと感じてしまいます。
「工芸」というモノを扱っている仕事で、いつも「モノ」ってなんだろう? と思っていて、視界に入るだけだと板が凹んでる物質でしかなくて、人がそれを「器」だと捉えて意識を宿すから、それがはじめて器というモノになる。モノは、人のために生み出されたもので、そこに意識が宿らなきゃそれは、ただのゴミでしかないですよね。
モノ、それがある場所、時間…何かそういうことに対して、真剣に悩んで生きていきたいなと。
「暮らす」ってことを大前提においていて、水が美味しいなとか、今日はお月様が出ているから空が明るいなとか、きっと昔の人も同じようにありがたく感じていた、そんな当たり前の事を、どう確かめ直して生きていくか…そんなことを大事にして生きている感じでしょうかね。衣・食・住に対しても、そうです。
だから、なにか無理に答えを出そうと思ってなくて、アートってなんだろう? 工芸ってなんだろう? それをずっと問いつづけていって、死ぬ間際に、自分なりの答え合わせができればいいなと思っています。
むしろ「理解しない」ということを大事にしたいと思うし、コレはこうだと「思い込まない」、「決めつけない」ってことが大事なのかなと。人生の、あらゆる場面においても、そうですね。
――なるほど。だからこそ、この先例のない “金属を天然染料で染める”などという、誰も思いつかなかった手法で、“決めつけない”工芸ができたのかもしれないですね
たしかにそうですね。あと、誰かにコレはこうですよ、と決めつけて教えられたことだけだと、そこで終わってしまうけど、常にそれに対して別の見方、やり方を試してみることが面白いなと。一度、その通りやってみたあとに、次にその常識を疑って挑戦してみる、みたいな。そうやって常に、どんなことに対しても、問いつづけていきたいですね。
――それは、まさにこの「セルフターン」の趣旨にも通じていて、常に自分自身に対して「生き方」や「働き方」を問いつづけるとか、新しいことや学びに挑戦しつづける、という姿勢に繋がりますね
はい。変化しつづけることを受け入れていますし、柔軟に生きることが大事かなと僕も思っています。
そもそも移住しようとか、地方じゃなきゃとか、そういうこだわりがあって今ここにいるわけじゃないですし。たまたまご縁あって流れ着いて、居心地よく過ごしているし、これからもそれが続きそうな感じというだけです。
――作品として評価されるだけではなく、きちんと対価をいただく「仕事」として、この工芸をやって成り立っていることが凄いと思いますし、実際に食べていけるまで両立している方って少ないですよね?
そうですね。同じように学んでも、実際に工芸で成り立っている人は1割もいない気がします。
――作家さんの中には一点ものに特化した人もいれば、主に大量生産を手がける人も居ると思います。牧野さんはオーダーを受けて一点ものをつくることも、複数生産品を百貨店で常設することも両方やられていますよね。どういったきっかけで販路につながっていったのでしょうか?
売り込んだのは最初の個展だけで、あとは口コミや紹介ですね。知り合いの作家さんや、ギャラリーの人とか、そういう繋がりがあって呼ばれたりしたことで拡がりましたね。
地域の中で“楽しくなること”が大事
――今後の夢や目標、やりたいことはありますか?
この地域にひょいっと来て、住み続けてくれる人がいたらいいなと思っていますね。 人口も減っていって単純に地域の人も、僕も寂しいし、ここが来やすいところになるといいなと。
いま、自宅の裏に「ショールーム」をつくって、常に作品を見てもらえる場所をつくろうと頑張ってるんですけど、ゆくゆくは会社にして、1人でもいいので「雇用」を産むことができるといいなと。ここに住むことを躊躇する理由には、雇用がないことも1つあると思うし、小さいことからはじめて、人を呼べればいいなと思っています。
そして、いつかここが「草木染金属工芸の産地」になれればもっと面白いなと。
僕の学生当時の夢は、工芸で生活していくことだったんですけど、もうその夢は叶ってしまったので、次の目標は、ここに人を呼び込むような仕掛けをして、その副産物として、この地域に人が増えて地域が盛り上がってくれたら、それは結果として嬉しいことですね。
でも、僕がそれを面白いな!と思うからであって、“地域のためだけにやろう”と義務のようには思っていないです。地域のためにやろうとしたら、きっとそれが本業になってしまうし、それでは自分が倒れてしまうから、そうではなく、自分の仕事に絡めながら結果的に人が増えて、この地域が面白くなったらいいなと思います。
思いの通じるパートナー・仲間が大切
山形で出逢って結婚した奥様も、実は京都出身の方。同じ西日本出身の芯の通った、でもはんなりとしたやわらかさを併せもつ女性。彼女が山形に来た理由は、仕事がきっかけ。「障がい」をもつ人を支援する仕事でしたが、それは高校時代を海外で暮らしたときの、マイノリティとしての経験が原点になっています。
自分の「ふつう」が周りに通じず、周りの「ふつう」も分からず困ってしまうこと、一方でやり方次第で通じ合えることも大いにあるということは、「障がい」という、周りの環境との不和ゆえに日常の生きづらさを感じやすい人たちにも通じる、と思ったことがきっかけで、この道を選んだそうです。
現在は福祉施設に勤め、障がいをもつ方と一緒に過ごしながら、子育てにも奮闘しています。
牧野さんは、彼女と一緒になったのは「単にノリが一緒だったからですよ!(笑)」といいますが、お2人のお話を伺っていると、やはり根っこにある「働くこと」や、「生き方」、そして生活感覚が、どこか共通しているのではないかと。撮影させていただいた、家族写真に映る背景は、「土蔵」の彼らの住まいです。
そんな牧野さんが、最後に語った言葉が印象的でした。
「大事なのは、仲間。目標をもって楽しく悩んでいる人との繋がり」。人の縁をとても大切にしている姿でした。
全国から、この魅力と伝統を継承する仕事を求めて訪れる若者が増えることを願って、今日もまた廃校の工房では、アルミニウムの板を叩く甲高い音が、この町に響きわたっていることでしょう。
牧野 広大(まきのこうだい)さん
1986年 愛知県豊橋市生まれ。
2010年 東北芸術工科大学院 芸術文化専攻 工芸制作特別研究領域 修了。
寒河江市美術館にて社会教育指導員(のち美術館専門員)として企画・運営に従事。
2010年より芸術家グループ「あとりえマサト」の一員として山形県朝日町の廃校(旧立木小学校)を拠点に作家活動中。数々の個展や企画展、催事、アートイベント、講座等を開催。
大丸東京での常設展示や、新宿伊勢丹での催事も手掛ける傍ら、作家活動開始直後から毎年のように国内外のコンペ等で受賞。2011年「雪のデザイン賞」銀賞、2013年「高岡クラフトコンペ」優秀賞、同年テーブルウエア大賞(東京)では、佳作&宮田亮平審査員賞受賞。