北谷(ちゃたん)町アラハビーチ沿いのカレー店「あじとや」。カレー好きの米軍関係者や観光客で賑わう、人気店です。経営者の永井義人氏は東京の大企業勤務を経て沖縄にやってきました。その間、どんなSELF TURNポイントがあったのでしょうか。沖縄のカレーとともに世界を目指す、決意のインタビューをお届けします。
※「SELF-TURN(セルフ・ターン)」とは:
自分の生きがいという本質を探すこと。本来の自分に帰って(TURN)、自分を じっと見つめ、自分を生かせる場(PLACE)を見つけ出すことを意味します。
SELF TURNポイント① 会社からネットサービスを「買い取って」転職
「僕はリクルートで『伝説の研究機関』にいたんですよ」と、切り出した永井義人氏。スパイスの利いた出だしに戸惑っていると、ニヤリと笑いながら説明してくれました。
「リクルートが紙の媒体からインターネットへ舵を切った時代、1989年に『メディアデザインセンター(MDC)』という研究開発機関ができたんです。各部署から7人集められたんですが、みんな会社を辞めたがっていた人たちで(笑)。そこで実験的にウェブサイトを持ち、ネットの研究をしていました。自前のサイトを持っている企業がほとんどなかった頃です」
MDCのメンバーは後にそうそうたるキャリアを築き上げた人たちといいますから、組織からはみ出しつつも精鋭が集められたのでしょう。永井氏はそんな日本における最先端の組織に所属しながら、応募した社内の経営提言論文コンテストで一位を獲得。10年後、リクルートが陳腐化していないためにはどうすればいいのかという事業戦略論でした。
「遺言のつもりで書き上げたんですよね(笑)。同時に、『ボトルメール*』というサービスを開発してMDCで運営していました。しかし2002年、MDCが閉鎖されることになり、会社に掛け合ってボトルメールの商標やソースコード、運営権を一式買い取ったんです」
永井氏が個人で設立していた会社が、ボトルメールを引き継いだわけです。「ビジネスの重要テーマを1つ見つけたらやり抜け!」が、MDCの価値観。退職金と交換したボトルメールを抱いて永井氏はリクルートを退社しました。
*ボトルメール:手紙の入った瓶を海に流し、見知らぬ相手とコミュニケーションを取ることをネットで行うことのできるサービス。eメールとは違い、送信相手を指定することはできず、いつ誰に届くかわからない。
SELF TURNポイント② またも会社から自腹で企画を買い取り、退職
永井氏はリクルート退社後、ソニーがソフトウェア専門の子会社・ソニーDNAを設立すると聞き、履歴書を送りました。募集していたのはエンジニアなのですが、それは永井氏の守備範囲外。ところが、「新しい会社には、企画をする人間も絶対に必要だ」との手紙を添え、入社を勝ち取りました。
入社後は新規事業を担当。親しい仲間同士で利用する簡易MLサービスを事業化しました。併行して、携帯電話を使って外国語でコミュニケーションを取ることができる企画を立案。準備に半年もかけて役員にプレゼンテーションしたところ、10分で没に。事業規模が小さすぎるというのが理由でした。
「会社のスケールが大きすぎました。ただ、小さく産んで大きく育てるというネット事業の特性が、会社の志向とそもそもマッチしていないということを実感しました」
そこで永井氏はまたも自腹でその企画を買い取り、ソニーDNAを退社しました。もう新規事業をやらないという方針が決まったことも理由です。
「リクルートの時と辞める理由も、やったこともまったく同じですね。で、辞めてから2年かけてその企画(ツール名・ハントーク)を実現させました」
SELF TURNポイント③「ブランド力のある地方」沖縄でネットワークを構築
リクルート、ソニーという大企業を退職し、フリーランスになった永井氏が次に考えたのは、地方で働くという選択肢でした。
「リーマンショックも起きて、抜本的に働き方を変えないと波に呑まれちゃうと感じたんです。大企業に勤めるメリットは、自分の実力以上の仕事や想定外の仕事が来ること。でもフリーランスに来るのは身の丈に合った、過去のイメージ通りの仕事です。でも、自分はいつもワクワクする仕事がしたい。じゃあ実力以上で想定外の仕事をするためには、『ブランド力のある地方』に拠点を置くというのはどうだろう──それならば京都か沖縄だと思いました」
しかし、何もコネクションがない土地でフリーのコンサルタントを始めたとしても、仕事は来ないでしょう。今まで新規事業を手がけていた経験から、未知の領域に踏み込むときには必ず「仮説」を立てることがクセになっています。そこで、「ツテがない土地で勝算を得るには……」と導き出したのが、日本の全ての自治体に存在する「産業振興公社」の活用。
「東京某区の産業振興協会から、町工場に就職を斡旋する仕事をいただいたことがありました。そのとき、8カ月で工場の社長さん200人くらいと仲良くなれたんです。それをやろうと、京都と沖縄の求人をずっとチェックしていました」
そして、ITベンチャーの誘致業務を沖縄県産業振興公社が求めているのを発見。応募して採用されました。仮説通り、沖縄県の情報産業関係者にネットワークを広げることができ、補助金の審査員なども務めるように。
「土台づくりのつもりだったんですが、想像以上に楽しい仕事で5年続けました。出張が大好きで、飛行機に年間60回ほど乗れるのが楽しくて(笑)」
SELF TURNポイント④ 自問の結果、沖縄のカレーを世界一にする!という野望が
産業振興公社の契約は5年で終了し、さて次は何を──と考えた永井氏。普通ならば今までのキャリアを活かしたIT系の事業となるのですが、問題もありました。
「5年間沖縄のIT企業と付き合ってきて、彼らの内部事情も知っている私が独立すると、かなり嫌なライバルになっちゃいます」
内情を把握しているだけに、同業界での起業は心苦しいものがあったのでしょう。そこで永井氏は、また「仮説」をたてはじめます。
「自分は仕事以外、何にいちばん時間とおカネを使ってきたんだろう、と自問したら圧倒的に『おいしいものを食べる』ことだったんです。そこで、食べ物に的を絞りました。自分には調理の技術がないから、食のクリエイター(シェフ)とパートナーシップを組むこと、何の料理で行くかの決定が課題でした」
永井氏は、コーディングはできないけれど企画力やプロデュース力を発揮しIT業界で成功してきました。同様のことを食のビジネスで実践しようと考えたのです。提供する物は、日本ブランドを最大限に生かせる和食。それでいて、比較的シェフの育成が早いものといえばラーメンかカレー。ラーメンは既に世界を席巻しているので、カレーに的を絞りました。さらに、ひとつの目標を掲げます。
「沖縄から世界一を目指す、という大きな野望を抱きました。このくらい思っていないと生き残れません」
「あじとや」が勝つためのシナリオ
次に永井氏は、勝つためのシナリオも組み立てます。
「カレーはスパイスが『ブラックボックス』となるので、コピーされにくい料理です。食品親和性も非常に高く、ご飯、ナン、うどん、パン、パスタなど幅広い食材と合わせられるのです。ローカルな食材や食習慣にアレンジしていけば、世界で通じます」
シェフは、永井氏が常連だった首里と泡瀬にあるカレー店「あじとや」の山崎憲次氏を口説きました。北海道出身の山崎氏は2012年に沖縄へ移住。黒糖やターメリックなど、地産地消にこだわったスープカレーの店を始めます。アルバイトの教育にも長けていて、永井氏は人材育成もプロだと見抜いたのです。「一緒に海外を目指して世界一になろう」との申し出を面白い、と受けてくれました。そして、新たに株式会社あじとやを設立し、北谷に出店。北谷は大規模な米軍基地があることで知られていますが、アメリカ人の間で非常に人気のある食事が日本式カレー。名古屋に本社のあるカレーチェーン店の北谷店は、全国1位の売上を誇っているくらいです。
「彼らは、日本に来てキーマカレーやスープカレーを初めて体験します。かなりのマニアになって本国に帰り、向こうで広めてくれているんです」
あじとやもその流れで行けると踏みました。その切り札が、山崎氏が開発していた「沖縄黒糖カレー」です。
「例えば那覇空港のレストランで僕らのカレーと普通のカレーを出したら、前者の方が絶対に売れますよね。リゾートホテルの朝食バイキングで沖縄黒糖カレーがあれば、みんな一口食べると思うんです」
ブランド力のある地方という強みを最大限に使いながら、世界進出を本格化させていくプランです。
フード系のエデュケーション・ベンチャーなども
「まずは台湾へ技術ライセンスを提供して、向こうでの拡散を狙います」
2016年に台湾のフランチャイズ展示会へ出展し、引き合いのあった会社が台湾のシリコンバレー・新竹市にカレー店を開店。あじとやのスパイスを提供し、沖縄で研修したシェフが腕をふるいます。さらに2店舗目が、空港にほど近い、地下鉄の新駅が開通した中?市にオープン予定です。
通常のフランチャイズビジネスとは違い、あじとやはフランチャイズ料が無料。その代わりスパイスをあじとやから購入することと、定期的に研修を受けることが条件です。研修の動画化も考えていて、やがてビデオ会議のような研修会が開けるかもしれないと、永井氏。
「日本的な店舗運営やノウハウなどのオンライン学習は、多言語教育ができるんじゃないかなと。カレー以外にもうどんや寿司、たこ焼きとか。経営ノウハウのオンライン学習ができれば、日本食のエデュケーション・ベンチャーになれるかもしれません」
カレーを通じて飲食業界を見た永井氏は、参入してもすぐに撤退していくケースが多いことを知りました。そこで、キッチンカーを数台まとめて自治体に買ってもらい、出店者をコンペで募ってさまざまな場所へ派遣するなど「飲食起業家の護送船団」のようなアイデアを考えています。災害が起きたらそのキッチンカーを自衛隊の輸送機で被災地へ運び、暖かい食事を提供する「フードレスキュー」もできます。
「お店を潰しちゃったシェフのプロデュースをしてあげたり、海外出店をお試しで1カ月できるようにしたり、いろいろな企画を暖めてるんです」
50歳を迎えたとき、「まだ15年くらいは身体が動くし、あと2つくらい新規事業ができる」とフードビジネスにチャレンジした永井氏。東京にいたらできなかったであろう実験的なアイデアを、沖縄ブランドに載せて世界へ広めつつあります。きっと「2つくらい」どころではない数になるのではないでしょうか。
沖縄に本社移転することの意義
個人で沖縄に本拠を移した永井氏ですが、ITベンチャーの誘致を行ってきた経験から、会社として移転することについて訊いてみました。
「例えばクラウド系のベンチャーを口説くとき、『いつでもどこでもできるサービスを提供するクラウドが、どうして東京にいるんですか』と言うんです。『沖縄に来てできないのなら、その程度のサービスだと思われますよ』と」
その言葉に乗って沖縄に移転したクラウドサービスの会社が、マザーズへ上場準備中です。
「東京圏の上場企業は2000社以上あって、さらに毎日上場しています。でも、沖縄ではたった5社。マザーズ上場会社はまだありません。沖縄初のマザーズ上場企業となれば、同じ上場でも日経新聞にも載るでしょう」
地方はコミュニティが小さい故に、何かコトを起こせばすぐ目立ち、それが全国メディアにも掲載される。永井氏はこれを「メディアのレバレッジ」と呼び、沖縄にあることのメリットの一つに数えます。ただし、沖縄に拠点をつくったのなら地元で新規採用をする必要があるとも。
「地元の人と絡まなければ、単なる出島です。コミュニティに融け込みにくい。融け込みすぎて移転してきた会社を辞めて、宮古島へ行っちゃった人もいますけれど(笑)」
永井氏の個人ブログ「マロリーな日日(にちにち)」では、沖縄進出を検討しているベンチャーに役立つ情報を発信していて、その中で「究極の福利厚生」が挙げられています。「非日常のリゾートライフが身近にあることで、エネルギーをチャージできる」という代え難いメリットです。
毎日海のそばで癒されながら仕事ができる幸せを、「あじとや」の窓に広がるビーチを見ながら実感できた気がします。
マロリーな日日:http://m-okinawa.blogspot.jp/2014/01/40.html
永井 義人(ながい よしひと)さん
1963年神奈川県横浜市生まれ、栃木県宇都宮市育ち。1987年リクルートに入社し、1989年から「メディアデザインセンター」に配属。その後ソニーDNAに転職し、2009年から沖縄に移住。ITベンチャーの誘致業務に5年間携わる。2015年に株式会社あじとやを設立。沖縄では単身生活を送り、大阪在住の家族の元へ飛行機で足しげく通う。