「旅するパン屋」をコンセプトに、2016年パン屋として独立を果たした塚本久美さん。大学卒業後、株式会社リクルートに就職しましたが、3年間勤め、パン職人になるために退職。世田谷の名店・シニフィアンシニフィエにて7年間修行をしたのち、兵庫県丹波市を拠点に「HIYORI BROT(ヒヨリブロート)」を開店しました。今や全国からお取り寄せが殺到しているという成功の裏には、どんな背景があったのでしょうか?
旅するパン屋とは?
「HIYORI BROT」は店舗を構えていません。現在パンを販売するのは、インターネットおよびイベントのみ。その理由を「家賃がかからないのはもちろん、旅をしたかったから」と話します。
実は塚本さんがパンを焼くのは1ヵ月のうち20日間。あとの10日間は旅をします。
「“月の暦”で動いているんです。新月?満月と、満月からの5日間は月の力が放出されているときなので、アウトプットとしてパンを焼きます。満月の6日後?新月にかけては吸収する力が働いているので、旅をしてインプットする時間に当てています」
「旅するパン屋」というと、旅先でパンを販売すると思われることも多いそうなのですが、彼女が旅をする主な理由は食材探し。日本中を巡って、パンに使う原料の生産者を訪ねているのです。
「もともと飽きっぽい性格で何をしても3日坊主なんですが、『パン』と『旅』だけはどちらも好きで続いていました。1つのことだけだとサボってしまうんですが、2つだとうまく回るんですね」
パン屋を目指したキッカケ
大学を卒業したら漠然と職人(当時はウェディングドレスの職人)になりたいと思っていた、と語る塚本さん。それでもすぐに職人の道へは進まず、就職活動をして、面白そうな会社だと記念受験のつもりで受けたリクルートへ就職。入社半年で転職雑誌の企画を任されるようになり、企画職の面白さを実感していたといいます。
ところが、その頃紙媒体の売上不振が続いており、担当していた雑誌が休刊することに。仕事でのモヤモヤを晴らしてくれたのが、大学時代から行っていた「パン屋巡り」だったのです。
「友人が学生時代からパン職人を目指していて、その頃から一緒にパン屋を巡るようになりました。卒業旅行も2人でデンマークとドイツにパンを食べに行ったんです。そのとき、ベルリンのパン屋で食べたパンが衝撃的においしくて。店内に石臼が3台あって、その場で麦を挽いてパンを焼いていたんですが、日本で小麦から挽いているパン屋は見たことないなぁと感じた記憶があります」
週末パン屋でアルバイト
塚本さんは、社会人2年目の頃には「パン職人になりたい」という想いが芽生えていたと振り返ります。そこで最初に取った行動が、パン職人の実態を知ることでした。週末にパン屋でアルバイトをすることにしたのです。
「ひたすらパン屋を巡っていたら、自分好みのパンの先に必ず同じシェフの名前があることに気づきました。現シニフィアンシニフィエのオーナーシェフで、当時はユーハイムのパン部門のシェフだった志賀勝栄さんに学びたくて、直接連絡しました」
パンの販売をしながら、パン作りについて学ぶ日々。
「空き時間に厨房を覗かせてもらったり、最高に楽しかったですね。その頃から本格的にパン屋を目指したいと思うようになりました」
未経験でパン職人へ
いざ会社を辞め、未経験でパン職人を目指すのに不安はなかったのでしょうか?
「体力面がまず不安でした。給与も1/3になるし…会社の上司に『パン屋になりたい』と報告しても、ほとんどの人に止められました」
しかし、尊敬する一人の先輩の言葉が塚本さんの背中を押したのです。
「今すぐいけ。今なら3年やって無理でもまだ間に合うだろ!」
塚本さんが会社を辞めてパン屋の道へ進んだのは、26歳のときのこと。仮に途中で断念したとしても、30歳までにまた次にチャレンジができます。
こうして満を持してパン職人に転身した塚本さん。しかも、憧れの志賀シェフの元で働けることになったのです!
「ユーハイムのアルバイトに私を採用してくれた方に、会社を辞めたことを報告しに行ったんです。そしたらたまたまその方が志賀シェフの右腕的存在で、シニフィアンシニフィエで未経験の採用を考えていると教えてくれて」
業界内では独自の製法を持つことで知られる志賀シェフは、学校やその他のお店などでパン作りを学んだことのないまっさらな人が、志賀シェフのやり方をどう吸収していくのかに興味を持っていたんだとか。
ドイツで学んだ、パン作りの考え方
技術面を志賀シェフから学びながらも、塚本さんは原点であるドイツへも複数回足を運びました。ドイツではマイスター制度があり、修行中の人を受け入れる“ゲゼレ”という習慣があるのだそう。持ち前の度胸と行動力を発揮し、学生時代に感銘を受けたパン屋を含め、複数の店舗で飛び込み研修を受けたといいます。
「ドイツでは60km圏内の原料を使うのが当たり前という話を聞きました。それは、生産者の顔が見える安心安全な原料を使うことで“食べて健康になるパン作り”ができることや、主食であるパンの価格を抑えることにもつながっていることを知りました。そこで私自身も生産者を知ったうえで材料を揃える、今のスタイルに辿り着きました」
他にも、月の暦がものづくりに影響することなどをドイツで学んできたと塚本さんは話します。
呼ばれるようにして丹波へ
さて、シニフィアンシニフィエでの修行とドイツでのパン作りを学ぶ旅を終え、いよいよ開店準備です。当初は東京にお店を構える予定もあったそうなのですが、ここで塚本さんが兵庫県丹波市に拠点を置くことになったある出来事がありました。
知り合いがドイツパンのお店を島根でオープンする際に、手伝いに呼ばれたのです。3ヵ月間住み込みで、開業の忙しさを体験すると同時に、地域ならではの地元の人との密接な関係性にも触れ、楽しく過ごしたといいます。
そして、島根からの帰りに丹波へも立ち寄りました。友人がカフェを営んでおり、過去にも何度か1日限定のパン屋を開かせさせてもらっていたのですが、そのときもパン屋を実施。
「そしたらパンを食べた地元のおっちゃんが『お前のパン食べたいから、うちの裏の小屋使っていいぞ』って。工房の場所が見つかったと思ったら、別の人が『シェアハウスもあるよ』っていつの間にか周りが固まっていきましたね」
こうして東京ではなく、丹波で開業することになった塚本さん。実際住んでみた丹波でのくらしについては、「地域の人がみんな親戚みたい。困っているとすぐに助けてくれて、お礼にパンを差し上げたり、私には性に合っていました」と話します。
100歳までパン屋を続けたい
誰かの“○○日和”に寄り添えるパンでありたい、という想いで命名したという「HIYORI BROT」(※「ブロート」はドイツ語でパンの意)。今後について塚本さんは次のように語ってくれました。
「自分で小麦粉を挽くのが近い将来の目標。そして、100歳までパン屋を続けられたらいいなと思っています。やり方はどんどん変わっていいし、どんなに小さくてもいい。一人でできることには限界があるので、長期目標としては子どもを持つ母親の働く場にもできたらいいなと思っています。パン屋はハードワークなので女性はみんな子どもができると辞めてしまうんです…自分自身も含めて、女性も活躍できるパン屋にしたいですね」
それから、これから地域を舞台に新しい一歩を始める人へは「とにかくその土地へ足を運んで、現地に友達を作るのがいいと思います。外から来た人でも誰々の紹介ならOKってなるので」とアドバイス。
丹波でパン屋を始めた塚本さんですが、「旅するパン屋」はパンを名刺代わりに、今後もアグレッシブに日本中を旅していくに違いありません。