過疎化が進む地域へ追い打ちをかけた、2004年の新潟県中越地震。一時は「村をたたむしかない」と思われた十日町の池谷集落が一転、人口が増えていく“奇跡の集落”として復活した背景には、多田朋孔(ともよし)さんたちの活動がありました。NPOの事務局長を務めながら、自ら農業と6次産業を実践する多田さんの歩みを聞きます。
都会から限界集落への移住
この池谷集落という土地は、最盛期の昭和30年代には37軒、211名の人々が暮らしていました。私たちのNPOが拠点にする「池谷分校(やまのまなびや)」も、かつては50数名の児童が通う学校でした。
その後、徐々に人口が減って震災が起きた2004年には8軒に、私が移住する前年の2009年には6軒、13名にまでなりました。0?14歳までの年少人口がゼロ、高齢化率は62%に達していたので、いわゆる「限界集落(人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって社会的共同生活の維持が困難になった集落)」の定義に当てはまるものです。「このままでは村をたたむしかない」と半ば諦められていました。
そうした背景を知ったのは池谷集落と関わりを持ってからです。以前、私が東京で勤めていた企業では、社会貢献活動としてJENという団体を支援していました。震災復興に助力していたJENが企画して田植えのイベントをやったときに参加したのが、池谷集落に来る最初のきっかけでした。
イベントでは隣の入山集落出身の山本浩史(NPO法人地域おこし代表)が話をしました。入山集落は廃村になりましたが、通いの耕作者が棚田を維持している土地です。彼は「ここでの取り組みを、日本の過疎の問題、農業の問題、食料の問題に立ち向かうつもりでやっている」と話したんです。そのとき、自分がずっと考えていたことが繋がったんですね。
当時はリーマンショックがあったすぐ後で「お金の価値」というのは危ういものだと感じたんです。「都会に住んでいる31歳の自分は、このままでいいのか」とモヤモヤしていたものの、何をしたらいいか思いつきませんでした。それがたまたま参加した田植えイベントでピンと来た。抽象的な理想論ではなく、もう地に足の着いた活動を実践している人がいたんだと。
地域おこしの活動というと単発のイベントを立ち上げるイメージがありますが、それだけではなく「仕事をつくる」ところまでセットに構想されていて、本質的な活動だと思ったんですね。その後、地域おこし協力隊に応募して3年間の任期で集落に入った後、引き続き定住する道を選びました。
米づくりと6次産業の商品開発
集落に元々いる人たちが望んでいたのは、祖先が切り拓いた棚田を引き継ぐことでした。例えば、移住者が増えること自体は歓迎するのですが「米をつくらない人ばかりが増えても仕方ない」と本当のところは思っていたのです。
年寄りの自分たちがいつ米づくりを辞めてもいいよう、後に引き継げる受け皿となる体制がほしいと。この思いが村つくりの根幹になるので、稲作は非常に大事なことだったんですね。私が移住をするときも、まずは米づくりを仕事にするのは必須条件だったと言えます。
池谷集落は2017年1月の時点で11世帯24名と増え、限界集落から脱して(年少人口比率21%、高齢化率38%)、“奇跡の集落”と呼ばれるようになりました。全国から私たちの取り組みを視察に来る方たちも増えています。
震災復興の翌年からお米を直販するテスト販売が始まっていましたが、2008年からは入山・池谷集落で獲れたお米を「山清水米」のブランドで販売しています。お付き合いがあるお米屋さんや業者の人などに一部を出していますが、なるべく直販で流通させたいと思っています。現在は年間でおよそ10トンが売れて、売上げは800万円ぐらいになっています。
これからは直販の割合をもっと増やしたいですね。ずっと米を売る取り組みをやってきて重要だと感じたのは、「山の湧き水で育てた魚沼産コシヒカリ」というブランド力に頼ることなく、買っていただく人との人間関係をつくること。生産者と消費者がちゃんと会って、お互いに意気投合するのが一番だと強く感じます。
地域おこし協力隊のサポートや、十日町地域以外の全国にある地方の集落を応援する仕事など、NPOの業務が多様化したこともあって、今は農業部門の専門メンバーを雇っています。そのほか6次産業の取り組みとして、山清水米を原料にしたレトルトのお粥も外部に委託して製造しています。
お粥は神社などが参拝客に配布するような目的で、大口で購入してくださっています。また、非常時には加熱せずそのまま食用できる商品です。白粥はすでにあるお米を材料にしているものだから、受注生産にも向くんですね。
以前は野菜粥もつくっていたのですが、野菜は仕入れるタイミングが決まっているので、タイミングよく受注生産ができないことがありました。6次産業のビジネスではPDCAのサイクルをすぐに回せる加工品を企画することが肝心なんです。
ビジネスデザインの実践へ
これまで農水省が認定する6次産業化プランナーとしてアドバイスを行ったり、自分でも実践をしたりしてきましたが、近年では食品関係だけにこだわらないビジネスモデル・デザイナーとして、6次産業の取り組みを広い視点から見ています。
かつての失敗談を話すと、集落の小屋で鶏を飼育しており、卵を販売していました。しかし、野生のテンに鶏小屋を襲撃されてしまい、一夜にして鶏が全滅してしまったのです。こうしたリスクを避けるために、手元にある米でつくれるお粥を主力にしました。
また、1次産業からの発想だと、どうしても「つくってから売る」という傾向になります。そうではなく「売れるところを見つけてから、無理のない商品企画を詰める」のが大事なんです。
消費者やバイヤーが何を求めているかをちゃんと知った上で商品をつくる。そのためにはサンプルを出してモニタリングをする必要もあるでしょう。
今、実践編として私たちが力を入れようとしているのはポップコーンです。先日も自分が商談に直接行って、次のステップの準備をしようという段階にあります。立ち上がるまでに時間がかかると思いますが、計画が決まれば生産者を募ってトウモロコシを栽培し、東京の店舗などに出荷したり、直販をしたいと考えています。
地域に溶け込むということ
復興支援の補助金である「中越震災復興基金」は10年目にあたる平成29年度で終了するので、これからは地域が独り立ちして力を付ける必要があります。池谷集落を含む飛渡(とびたり)地区全体での地域おこしも始まって、新しい取り組みの発信をしています。
田んぼアートをやったり、生産者の野菜を集めて市内の飲食店に販売したりという「食と農を考える飛渡の会」の活動が生まれたんですね。飛渡地区のお米というブランドをつくるといった活動が広がっています。
その準備として、半年ほどかけて振興会の役員会に話を通したり、総会で時間をもらって話をさせてもらったり、各集落で説明会をさせてもらったりという根回しをしました。行政のまちづくりでは「空き家バンク」や仕事の斡旋といったことばかりに目が向きがちですが、本当に必要なのはこうした人と人のつながりなんです。
外から来た人が何か事業をやるとなったときも、地元の人の力を借りられればできることの幅が広がります。地域にちゃんと馴染むことを優先したほうが「急がば回れ」でうまくいくと思いますね。自分の場合、地域の人がやってもらいたいと思っていることをまずやるようにする姿勢を持とうとしています。
ただ、それ以上に地域の人が “よそ者” を歓迎しようという姿勢が重要です。そのため、移住希望者に対してだけでなく、受け入れる側にも話をする機会が増えました。各地で研修の講師を引き受けたり、移住相談業務などを手掛けたりといった仕事もしながら農業や6次産業に取り組んでいますが、いざというときは生活に必要なものすべてを自給自足できる力を持ちたいと考えています。
多田 朋孔さん
1978年大阪生まれ。NPO法人地域おこし事務局長。第44代京都大学応援団長。京都大学卒業後、コンサルティング会社に勤務。2010年より総務省の地域おこし協力隊として新潟県十日町市にある池谷集落に家族で移住(現在は3人の子どもがいる5人家族)。自身で米や野菜を生産しながら、地域おこしの取り組みを継続中。「池谷・入山集落の存続」「十日町市内の中山間地の活性化」「全国の過疎地を元気づけるような活動」の3つを活動の柱とし、都会から地方への移住支援、地方での起業支援研修の開催、地方創生フォーラムへの登壇、地方創生実行統合本部 地方創生検証委員会や食料・農業・経済研究会(内閣府)で現場の意見を政府に伝えるなど、地方創生の分野で幅広く活動している。
http://iketani.org