貧しい国に生まれても、重度障がいをもって生まれても、それぞれの人生の選択肢に差があるのは仕方のないことでしょうか。秋山政明さんは茨城県古河市議として、まちづくりに携わる一方で、重度障がいを抱えた第2子の誕生をきっかけに、重度障がい者とその家族を支援する施設Burano(ブラーノ)を立ち上げました。
生まれた環境で選択肢の幅が違うのはフェアじゃない
大学はアメリカに留学したという秋山さん。留学先では、中学から始めた陸上を続けるために、陸上部に所属していました。ご自身はインターハイに出場するほどの実力をお持ちでしたが、留学先で出会った発展途上国の選手は世界での上位者や、自国のトップ記録保持者ばかりでした。
「もし私が発展途上国に生まれていたら、私の競技レベルではアメリカの大学に留学し、好きな陸上を続けるという選択はできなかったと思います。自分がとても恵まれていたということに気づく一方で、生まれた環境によって選択肢の幅が違うというのはフェアじゃないと強く思いました。恵まれない環境で好きな選択ができない人の存在に気付きながらも、『自分の豊かさのためだけに生きる、それでいいのか?』という気持ちになりました」
将来は人と人、国と国との間に生じる差を縮められるような仕事をしたいと考えるようになりました。初めは途上国のインフラ整備の仕事をしたいという考えから始まりましたが、最終的に行き着いた答えは「まちづくり」でした。
「まちづくり」を世界中に横展開していきたい
まちづくりにたどり着いたのは、町は福祉施設、学校、病院など、人が生活するコミュニティの最小単位であると思ったから。
「まずは自分の生まれた茨城県古河市に、そこに住む人達みんなの幸せが叶えられるまちづくりができたら、地域全体の幸せをボトムアップできるのではと考えました。いずれは日本全国にモデルケースとして広げていき、更には全国的に注目されるまちづくりを進めて、世界にまで横展開していけたら、途上国の人も幸せにできるということを思い描きました」
とはいえ、この目標を立てた当時はまだ社会にも出ていなかった秋山さん。実現のためには政治という手段が当時はベストだと考えていましたが、まちづくりの手段は他にもあるかもしれないと、一度広告代理店に就職することにしました。
30歳で市議選に出るという目標をノートに書き、24歳で就職して営業職に。営業以外にも機会があればいろいろなプロジェクトに参加しました。仕事は充実し、結婚もしました。30歳が目前の28歳のときに古河市に戻り、会社のある東京との往復生活をスタート。仕事は夜遅くなることがほとんどでしたが、少しでも時間があれば早朝でも深夜でも、古河駅の街頭に立ち「秋山政明です」と挨拶と握手を繰り返していたといいます。
就職のときに思い描いていた自分の道に迷いはなく、秋山さんは30歳になる2015年3月末に仕事を辞め、4月25日に市議選を2位で当選し、古河市議になりました。
継続に発展していく「まちづくり」ができる組織をつくるために
晴れて市議になった秋山さんですが、まもなくして今までの仕事とのギャップを感じることとなりました。
「前職の時に直面していたクライアントの課題と、行政の抱える課題は大きく違っていました。様々な制度が結びつき、長期的で複雑なものでした。そして、課題を解決するスピードも、民間企業のスピードとは大きくかけ離れていて、10倍も20倍も時間がかかっている状況でした」
例えば老人介護の課題についての制度を整えようと審議を始め、検討委員会をつくり、有識者による会議、予算の計上など、度重なる段階を経て、やっと数年後に何かができる頃には、別の課題が出来ている……。パーフェクトな制度や法律を最初から作ることは出来ないので内容は常に修正を重ね、課題の状況もどんどん変化していくといいます。
「こういった複雑で長期的な課題を任期4年の政治家が、10年以上前から紐解いて、20年後を見据えて想像しながら次の一手を打っていくのは難易度が高いこと。でも一方でずっとそこで働いている国家公務員や地方公務員の方は、市民との窓口で現場を理解し、法改正についてもちゃんと学んでいます。なのでこうした職員たちが市民の声を聞き、政策を作れるような仕組みをもつ組織になれば、継続してまちづくりを進めていけるのではないかと思いました」
市議というのは年4回、議会に出席し、それ以外に視察や様々な委員会への参加をするなど、稼働期間は不定期です。秋山さんはこの議会の合間に、東京のデュアルワークを推奨するコンサルティング会社で働きながら、まちづくりに必要な組織づくりや新規事業の立ち上げのノウハウなどを学ぶことにしました。
開かれた政治・行政を目指して、秋山さんは同士の議員と一緒に議会で話し合われたことを共有し、市民の方たちの意見を聞くなどのセミナーや交流会を開催するようになり、市議として着実に自分の目指すまちづくりへの一歩を歩んでいました。コンサルティングの会社でも、週に2?3回東京へ行き、企業の人事制度の設計やマネージャー研修など、まちづくりに活かせる知識を実践的に蓄えていました。
仮死状態で生まれた第2子の誕生
転機が訪れたのは市議になって1年ほど経った2016年5月31日、第2子・晴(はる)くんの誕生でした。
「晴は重度新生児仮死状態で生まれて、呼吸をしていませんでした。『低酸素脳症の可能性があり、障がいが残るかもしれない』といわれました。すぐに大学病院へ運ばれて、ずっと入院で、いつ死んでもおかしくない状況でした。私自身毎日会いに行かないと後悔すると思って、車で往復2時間かけて病院に通い続けました」
課題先進国日本、増え続ける「医療的ケア児」
重度の障がいの中でも、生きるために日常的な医療的ケアや医療機器を必要としている障がい児を「医療的ケア児」といいます。具体的にケアとは人工呼吸器の管理であったり、たんを吸引したり、チューブなどで胃に直接栄養を注入する「胃ろう」など。命にかかわることなので、24時間体制です。この10年で医療的ケア児の数は約2倍に増え、日本全国に約17000人いるそうです。
日本はものすごいスピードで医療が発展しており、新生児死亡率(生後4週間で死亡する確率)は世界で最も低く、1000人あたり0.9人。医療が発達して多くの命が救われる嬉しい面が目立つ一方で、重度障がい児が増え続けている点や、ケアする家族の大変さについてはあまり知られていません。
寝る暇もない、24時間体制の在宅ケア
晴くんも一時的に危険な状態もありましたが、12月末に退院することができました。しかし、家に帰ってきてからが更に大変になったといいます。
夫婦で面倒を見ているとはいえ、まとまった睡眠時間をとることも、簡単に外に出かけることもできません。24時間なにをするにも命の危険ととなり合わせの状況です。晴くんだけでなく家族みんなにとって、この状態が続くと「まずい」と考えるにようになるまでに、そんなに時間はかかりませんでした。
「子育てはとても大変です。僕は仕事で外出もありますが、母親はつきっきり。長女の育児に加えて、晴のケア、精神的にも肉体的にも大変。ときには疲れがピークに達し、『こんな子生まれてこなければよかったのに』と考えてしまうかもしれません。さらにそういった考えを持ってしまった自分に嫌悪感が湧き、『母親失格』とさらに自分を責めてしまうかもしれません。この負のスパイラルに入る前に、晴が生まれたことがプラスに働くように、父親としてできることは何でもしたかったのです」
誰が悪いわけでもない、でも人間誰かのせいにしたくなる弱い気持ちになるときがあります。秋山さんは誰にもそんな思いをさせたくないと、奥さんの負担を軽くし、健常のお姉ちゃんも、障がいがある晴くんもみんなが幸せになれるような環境をつくるために、重度障がい児を預かる施設をつくれないかと情報収集をするようになりました。
1年後に生きているかわからない命に向き合う
重度の障がい児を預かる施設は全国に300カ所あるそうですが、5名定員の施設が多いのが現状です。17000人の医療的ケア児がいるのに、1日1500人しか預かることができていません。国は2020年までに施設を1800カ所全国につくることを掲げ、各自治体に1つつくるようにいいはじめていますが、国からの補助は全然足りません。
秋山さんは、同じように医療的ケア児をもつご家庭の意見をまとめ、3月の市議会の一般質問でこの課題を投げかけてみましたが、『検討します』という回答で、これは“打つ手なし”という意味合いの答弁だったそう。
アメリカで感じた、生まれた環境による選択肢の差。「恵まれた環境にいる自分に何ができるのか」とまちづくりを目指しましたが、この時の秋山さんは選択肢のない立場にいました。晴くんが1年後生きているかわらない切迫感のある状況で、自分で選択肢を作るしかないと、重度障害者の預かり施設立ち上げを模索しだしました。
「重度障がい児預かり」×「母親の働く場」の掛け合わせ施設
施設を立ち上げる情報は、秋山さん自身が足を運んで収集。数施設を回ってわかった施設の立ち上げの条件は、看護師、保育士、リハビリ職、児童発達支援管理者の4職種が揃わないと一人も預かることができないというハードルの高いもの。初期投資は1000?2000万円。ご自身で拾い集めて借金をするのはとてもリスクのあることだったので、投資してもらえる先を探すことにしました。
奥さんは晴くんが生まれてから24時間ずっとつきっきりで面倒を見ているため、社会との繋がりが病院と家だけ。外に気軽に遊びにいくこともできず、そのケアもしたいと考えたのです。
2017年5月に初めての提案にいって、そこから何度か相談とやりとりを繰り返していくなかで、同年8月に非営利法人をつくり、11月に助成金が決定。翌年の2?3月で物件を改修し、県に認可申請しました。こうして、重度障がい児を預かる多機能デイサービス事業と母親の働く場を提供する事業を掛け合わせた施設「Brano」が2018年4月1日にオープンしました。
晴くんの誕生を、プラスでいっぱいにしたかった
ブラーノは古河駅から車で15分ほど。閑静な住宅街に立つ、輸入住宅を1軒まるごとリノベーションしました。車での乗り降りのときに車椅子が雨に濡れないように、車庫のルーフの幅を広くしたり、2階で働くお母さんが下にいるお子さんのことが見えるように床をとって吹き抜けにしたり。また、兄弟も楽しく過ごせるように遊べるスペースも用意しました。
お母さんたちの仕事はブラーノで請け負い、お母さんたちに分担しています。初めての仕事も周りと協力しながら進められるので安心です。また、仕事は自宅で行うこともできるので、いつでもどこでも仕事をすることができます。
この施設ができてからというもの、メディアにとりあげられることもあり、見ず知らずの方から「わたしのまちにもブラーノをつくります」とメッセージをいただくこともあったそう。繋がりが増えていきました。
「晴が生まれて、できないことがいっぱい増えました。年に1回は行こうと言っていた海外旅行はいけなくなったし、もちろん気軽に旅行もいけません。でもマイナスなことを挙げたらキリがない。だから晴が生まれたことを早くプラスでいっぱいにしたかったんです」
今では秋山さんも奥さんも同じ施設内で働くことができ、お姉ちゃんも近くで遊ぶことができています。そしてお友達や職員さんたちに囲まれて元気いっぱいの晴くん。晴くんのお父さんが秋山さんで良かったと、皆さんが思っているようでした。
Buranoから広がる、これからの繋がり
ブラーノがオープンしてまだ間もないですが、晴くんを通してもっとプラスが増えていくように、秋山さんに今後の目標を伺いました。
「まだ悩んでいるのですが、3つの方向性を考えています。1つ目はブラーノの施設を横展開して増やしていくこと。2つ目は母親の働ける場所を提供する機能を、既にある重度障がい児の預かり施設に追加していって、母親の社会参加をサポートすること。3つ目は現在の施設は18歳までしか預かれないので、それ以上も対応していける生活介護の機能を追加した施設をつくることを考えています」
どれもこれも必要なサービスですが、これは秋山さんだけで展開するものではなく、早く国として法律を整え助成金が出るなど制度を変えて、たくさんの方が日本全国にこれらのサービスをつくっていけることを願うばかりです。
「私はまちづくりをしようと考えたときから、幸せの定義を“誰かと繋がっていること”と捉えています」という秋山さん。ブラーノは古河というまちに生まれたひとつのコミュニティで、今まで悩んできた家族たちが繋がれる場所です。市議という仕事にとらわれることなく、こういった施設が全国にできていくことも「まちづくり」のひとつではないでしょうか。
どんな状況に置かれても、目の前のことから目を背けず、自分にできることは何かを考え、進み続ける秋山さん。たくさんの方たちを繋げて、これからも何倍もの幸せを創りますように。
秋山 政明(あきやま まさあき)さん
茨城県古河市出身。大学卒業後は株式会社リクルート(現リクルートマーケティングパートナーズ)に入社。2015年同社を退社してすぐの4月、市議会議員選挙でトップと40票差の2位当選を果たす。議員と並行してコンサルティング会社JAMに入社しデュアルワークで、まちづくりに活かすための組織づくりと新規事業立ち上げのノウハウを学ぶ。2016年5月31日、第2子晴くんの誕生とともに育休をとり、2018年4月重度障がい児を預かる多機能デイサービスと母親の仕事支援を掛け合わせた施設Burano(ブラーノ)をオープン。