東京で育ち、東京でアパレル企業に勤めたものの、地方の暮らしを求め20代にして脱東京。以来、「人の価値観を動かす体験を提供したい」と地方の旅行業界に身を投じ、たどり着いたのは古巣のアパレルブランドが立ち上げたキャンプ場だった。一見関係のないようなキャリアに見えても、どこかでつながっていく。そんなキャリアにおける俗説を体現していっている粟野龍亮さん(30歳)の変遷を聞いた。
価値観の礎は、大学時代にホームステイしたカレン族の暮らしに
東京都大田区出身。サッカー三昧だったと振り返る高校は、部員が120人もいるサッカーの名門校で、毎週チーム編成が発表されるほど熾烈なレギュラー争いの日々だったという。卒業後はサッカーの強豪国であるドイツから学びたいと、上智大学の外国語学部ドイツ語学科へ進学。そして大学時代に得た経験が、その後の粟野さんにとっての価値観の礎を築くことになる。
「ドイツとは全く関係ないのですが、大学1年のとき、クラスの有志でタイのカレン族の村に1か月間ホームステイしたんです。そこでの彼らの暮らしは、一つひとつの暮らしの道具を自分たちでつくり、ていねいに使い続けていました。都会でゆるく生きてきた自分にとって、彼らの暮らしぶりに衝撃を受けたんです」
以来、自分の身の回りのものに興味を持つようになった粟野さんは、「繊維研究会」というインカレのサークルで活動。大量生産、大量消費社会の日本においても、身に着ける洋服などから、その先の自然や環境、未来について考えることはできないか。そんな研究に真面目に打ち込んでいたんだそう。
その流れで就職先は、アパレル業界へ。国内生産にこだわるアパレル企業で、それまで机上の空論で研究していたものづくりを、実際に現場で学ばせてもらったという。しかし不運なことに、就職した年は3.11の直後。商売どころじゃないと感じた粟野さんは、初任給片手に気仙沼にボランティアに出ていた。
「商売が大切なことは重々承知のうえだったのですが、商売よりももっと大切なことがあるんじゃないかと。今、考えると若くて甘い考え方だったなと思うのですが、社会や環境に対してもっと深く関わる仕事がしたいと思ったんです」
そんな折、大手アパレルブランド「アーバンリサーチ」が『かぐれ』というブランドを展開していることを知る。当時のコンセプトは“トラッドとモードと、地球”。洗練されたシルエットと着心地の良さを追求しながら、ファッションと地球の新たな共生の形を提案するブランドだった。まさに大学時代から追及していたテーマに共鳴した粟野さんは、縁あってかぐれに転職。その時、まだ若干の25歳だった。
自分たちの暮らしを自分たちの手でつくる地方暮らしへ
かぐれでは表参道と丸の内の店舗を行き来しながら、しばしば地方の作り手の元を訪ね歩いた。そこで垣間見た作り手の暮らしは、ゆったりとした時間の流れのなか、道具も食も自分たちの手でていねいに作られたものだった。さながらタイのカレン族の暮らしにシンパシーを感じたように、粟野さん自身も地方での暮らしを求めるようになっていったのは、この頃からだったという。
「自分たちで作った道具や食に囲まれた暮らしがとても豊かに感じたんです。ゆくゆくは自分も地方で自分の空間を持ちたいと思うようになりました」
仕事面ではこうした作り手の生産背景や想いを使い手に伝えたいと、店舗でのWSや展示会を企画。モノを売るだけならず、モノの背景にあるコトを伝えることに尽力した。
そんななか、プライベートでも同じ価値観を共にする伴侶に巡り合う。同じかぐれの店舗スタッフで、かつては夏を山小屋で過ごすほどの山ガール。彼女もまた地方での暮らしを求めていた。
その共通の想いは、ほどなくして具現化していくこととなる。二人の間に新たな命が誕生したのだ。
「子育てを考えたとき、より開放的な環境に身を置きたいと思ったんです。時間の流れやそこから見える景色が、感覚的に気持ちの良いところ。そんな環境で、野菜や身の回りのものも極力、自分たちの手でつくりながら、自分たちの暮らしを形作っていきたいなと」
そうなると自ずと居場所は東京ではなかった。お互い山好きだったため、移住先は山の近くも考えたようだが、そこは新天地での生活。子育てを考えたとき、少なからず頼る先があった方が良いということで、奥さんの実家のある三重県に決めた。伊勢神宮の神宮林が続いている森のふもと、柿畑に囲まれた神秘的な場所だったという。
初めての地方暮らし、そして異業界への転職
移住先が決まったら、先立つものは仕事探し。モノを販売するだけでなく、その背景にあるストーリーを伝えていきたいと考えていた粟野さんは、それまでのキャリアとは異なる旅行業界へと身を投じる。自身がそうだったように、実際に現地で体感してもらうことこそが、人の価値観を動かしやすいと考えるようになっていたのだ。
転職先は、大手宿泊予約サイトの法人営業。自宅を構えた伊勢に支店があったことも大きかった。ちょうど伊勢志摩サミットが開催された頃ということもあって、地域の旅行業界も活況を迎えたタイミング。そこで3年弱、地域の旅館・ホテル・観光協会にみっちり向き合い、顧客の課題解決に向き合った。
その結果、マーケットの見方、顧客への伝え方、数字の大切さなど、学べたことは数知れなかったが、一方で自分の関われるフィールドの限界を感じたことも事実だった。
「土地柄のせいか、昔ながらの老舗事業者が力を持っていて、新参者の個のプレーヤーなどが活躍できる余地が少ないと感じたんです。それは僕が力不足だったせいもあるのですが…。あと、僕の実家のある東京からの距離も少し遠すぎました。車で6時間、電車でも4時間半かかりますからね」
しかし、子育ての一番大変な時期を、妻の実家近くで過ごせたことは良かったと話す。プライベートでも畑を借りて、自分たちで食べる野菜を自分たちでつくるという暮らしを実践していたそうだ。
日本版DMOの立ち上げに一役買いたい
伊勢で地方暮らしの第一歩を踏んでみて、その感触に間違いはないと感じた粟野さん夫妻は、とある求人に目が留まる。
“長野県茅野市による、観光を活かしたまちづくりを推進する組織「茅野版DMO」の設立に伴うメンバー募集”
DMOとはDestination Management/Marketing Organizationの略称で、地域にある観光資源に精通し、地域と協同して観光地域作りを行う法人のこと。平成27年に観光庁が打ち出してから、まだ実際に本格的な成功事例がないのが実態で、全国に先駆けたモデルになろうと呼びかけたのだ。
人の価値観を変える体験を提供したいと考えていた粟野さんは即応募。もともと夫婦で抱いていた山の近くに住みたいという想いが捨てきれないのもあった。そして見事に合格。“地域おこし協力隊”としての制度を利用しての採用だったが、仕事内容と移住先に興味があったため、形態は問わなかった。
そこで粟野さんは地域資源を発掘することから始める。茅野市には八ヶ岳や蓼科、白樺湖、車山に代表される豊かな自然に加え、空気、水、歴史や文化、1万戸を数える別荘などがあり、観光資源には事欠かなかったが、中でも粟野さんが目を付けたのが「寒天」だった。
寒天とは、テングサやオゴノリなどの海藻類からできる、いわば植物性ゼリーの素のようなもので、長野県の諏訪地方が日本最大の産地を誇っている。カロリーがほとんどなく、食物繊維たっぷりで健康食品としても注目を浴びる寒天を核に、もっと地域おこしができないかと画策したのだ。
普段、観光とは無縁の寒天の生産者を回りながら、関係性を構築。一般的にはなかなか見ることのできない寒天畑を巡り、お手軽な寒天料理の試食が付いた、見て、食べて、寒天を身近に感じてもらうためのツアーを企画した。参加者は延べ120名を超え、ニッチな産業でも固定ファンを構築していけば、可能性はあるということを実感していった。
さらには、子供の頃から寒天についてもっと知ってもらいたいと、「ばばばあちゃん」シリーズで有名な絵本作家さとうわきこさんとも協業。寒天にまつわる絵本をつくることにも成功した。こうして粟野さんは地域にどっぷり浸かりながら、地域の橋渡し役として活躍していったのだ。
念願の山の近くでの暮らしもエンジョイしている。八ヶ岳は既にすべて登頂したという。時には娘も一緒に歩いたり担いだりしながらのトレッキング。雪の残る山道を歩く娘の姿からも、自然と調和しながらたくましく育っているようだ。
運命的に古巣へ戻る選択を
2年間ほど地域おこしに邁進するも、稼ぎとしてはまだまだ発展途上と話す。
「地域の“稼ぐ力”を引き出すことがDMOの使命でもあったのですが、自分が新たにつくった稼ぎとしては年間で100万円ほど。まだまだ道半ばです」
地域資源に可能性を感じながらも、実際に稼ぎを生み出すことの大変さ。そんなジレンマの中にいた粟野さんの元に、ふと天からの声が舞い降りる。
突然、古巣(株)アーバンリサーチの副社長に呼び出され聞かされたのは、茅野市の蓼科湖畔の敷地を買い取り、キャンプ場をオープンするという計画。その運営の中核として戻ってきてくれないか、という話だった。
「驚きました。まさか自分の移住した先の茅野市での計画だなんて。はじめはさっと撤退も辞さないような事業計画なら引き受けないつもりだったのですが、地域と連携を図りながら、ちゃんと地に足付けていく意気込みを感じたんです。それなら自分がそれまで培ってきた茅野市のプレーヤーたちと繋げていくことで、相乗効果を生み出していくことができるかもしれない。そう思ったんです」
地域おこし協力隊の活動母体は行政であり、茅野版DMOとの連携を通じて、行政にできることと民間にできること、それぞれにできることがあると感じたことも、転身を決意した一つの理由だったという。また、ブランドと地域資源を掛け合わせることで、地域の稼ぐ力をもっと引き出すことができるのではないか、という実験もしてみたいと考えた。
もともと地域おこし協力隊の任期は1~3年。2年弱務めたことで地域で顔の知れた粟野さんが、キャンプ場の運営に回るということで、茅野市からも歓迎された。こうして晴れて2019年夏、キャンプ場のオープンに合わせて、茅野版DMOから古巣(株)アーバンリサーチへ移籍。キャンプ場『TINY GARDEN 蓼科(タイニーガーデン 蓼科)』にて地域連携を図り、事業の価値を高めていく地域コーディネーターとして就任した。
4,800坪のフィールド内にはキャンプ、ロッジ、キャビンと、利用者のニーズに合わせた3種類の宿泊タイプを構え、温泉や地元食材で提供されるブッフェ形式のカフェ・レストランも併設。単体で見てもとても魅力的な施設だが、ここに地域資源をどう織り交ぜていけるか。粟野さんの活躍が期待される。
「快適なホテルに泊まってゆっくり過ごすのもいいですが、地元の風土を感じられるちょっとしたスパイスが加わると旅の思い出の質がぐっと上がるのではと思っています。アウトドアと共にある暮らしを実践、提案し、アーバンとローカルを結ぶHUBとなる場にしていけたらと思っています」
いつかは地方に自分たちの空間を持ちたいという想いが、既に半分実現できたような粟野さん。一見ばらばらのように見えるキャリアの変遷も、最終的にはつながっていくことに自身でも驚いているという。その底辺には、自身がタイのカレン族の村や日本の地方で感じたような「人の価値観に影響を与えるような体験を提供したい」、という共通の想いがあったからこそなのではないだろうか。場所や肩書きにとらわれず、自分の心の声に従ってしなやかに生きていく。そんな粟野さんの生き方は、きっとこれからもつながっていくに違いない。
粟野 龍亮(あわの りょうすけ)さん
東京都大田区育ち。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒業。3.11の年に大手アパレルブランドに就職し、翌年(株)アーバンリサーチの展開する「かぐれ」に転職。結婚・出産を機に、妻の実家近くの三重県伊勢市へ移住し、旅行業界へ転職。その後、日本版DMOの成功事例をつくるべく長野県茅野市へ移住・転職し、2019年8月より古巣(株)アーバンリサーチの運営するキャンプ場「TINY GARDEN 蓼科」の企画・地域コーディネーターに就任。