父親の病気をきっかけに故郷にUターンし、それまでの職種から一転して0から水産物卸・加工会社を起業した下苧坪之典(したうつぼゆきのり)さん。当時、岩手県洋野(ひろの)町は名産のウニをはじめとする豊富な食資源に恵まれながら、後継者不足や販路に乏しい状況だったそうです。その打開策として、地域産品のブランド化を目指し、地域の人々との協働を実現。国内販路の拡大、台湾・香港の富裕層向け販路を開拓するなど、北三陸産のブランディングに着手しました。その道のりには、「いいものがあっても、そのよさを知ってもらわないと価値がない」という下苧坪さんの熱い想いがありました。
0から1を生み出すアントレプレナーシップを養う
大学卒業後、国産車ディーラーで新車を販売していました。軽トラックの代替えを農家や漁師に進める中、いろいろな人脈もでき、セールスで記録を残すこともできました。3年半ほど勤めた時に、ソニー生命保険株式会社の方からお誘いがあり、転職を考えました。当時、生命保険会社はかなり飽和状態で、家の次に高い買い物にも関わらず、乱雑に販売されている状況がありました。プロフェッショナルが少ないことも日本の課題だと思い、転職を決意しました。
ソニー生命では営業とコンサルティングを行いましたが、その時の経験が今、一番役に立っていると思いますね。独立採算制の環境で、トップのエグゼクティブライフプランナーや直属の上司から、生き方やアントレプレナーシップを直接肌で感じながら、仕事をさせてもらったと思います。ソニー生命には3年半勤めたのですが、自ら0を1にするという、何もない状態から築き上げる仕事のやり方を先輩方に学ばせてもらいました。
父の病をきっかけに帰郷。地元の水産物を世界へ発信するべく「ひろの屋」を起業。地域貢献を目指す
そんな時、故郷の岩手県洋野町で水産会社を営んでいた父が病気になり、経営も思わしくなかったことから、会社をたたもうかという話になりました。何代に亘って経営してきた会社であり、長男なのでいつかは帰らなくてはという思いもあったので、それなら30歳になる前に帰ろうと決心。父の会社を継ぐというよりは0ベースで水産業に挑戦できるのではないか、と何の根拠もない自信を胸にUターンを決意しました。
もともと地元産の水産物がよいことは知っていましたが、幾らいいものがあっても、それをちゃんと動かせる人がいないと物が流れていきません。
「扱う素材がいいなら何とかなるんじゃないか。」「自分が戻ることで、何らか地域に貢献できるのではないか。」と、2010年に地元洋野町の町名をとって「ひろの屋」を設立しました。しっかり町を牽引できるようなリーディングカンパニーになっていこうという思いを込め、独りで立ち上げました。
当時は町の水産業は疲弊している状況でしたが、三陸沖は世界三大漁場の1つとも言われ、ウニをはじめとする地域の産品が宝物に見えました。その価値をブランド化したら、ビジネスになるのではないか。洋野町のウニだからこそ別格なんだと強調して、地域外に販路を広げる必要がある。そのためにも、日本全国、そして海外への販売ルートを確立させようと思いました。
曽祖父から受け継がれていた海外進出のDNA。北三陸ブランドの再構築を決意
首都圏への売り込みが少しずつ軌道に乗り始めた頃、東日本大震災で北三陸も大きな被害を受けました。被災した祖父の家を整理していたところ、1枚の古い写真を発見しました。曽祖父や祖父、従業員たちがたくさんの干しアワビを前にした集合写真で、三陸の生産一位と看板を掲げていました。この写真から当時、香港に干しアワビを直輸出していた事実を知ったのです。
曽祖父の代には北三陸の食材をブランド化して海外に輸出していた。そのDNAが自分にも流れている。この写真を見つけたときから、震災で壊れた北三陸ブランドを自分の手で盛り返したいという気持ちが強くなり、海外に出る準備のペースが加速しました。学生時代の留学経験から海外で仕事をしたいという夢を抱いていたこともあり、地域の産品の価値を海外に知らしめる手段があるのだと、挑戦する意欲が高まりましたね。
それからは、今までのやり方では何の変化も出せないと分かっていたので、東京の起業家の方にどんどん会いに行きました。そういう方の周囲には同じような起業家精神を持った方が多く、いろんな方に会うことでヒントを得て、ビジネススタイルを変化させていきました。
そして、2013年に「北三陸世界ブランドプロジェクト実行委員会」を発足。地元の生産者、漁業協同組合、水産加工会社などと協力して、北三陸の高品質な水産物を日本、そして世界に発信する取り組みをスタートしました。2014年にはキリン株式会社と公益財団法人日本財団による東日本大震災復興支援「復興応援 キリン絆プロジェクト」の水産業支援対象に選ばれ、「北三陸ファクトリー」という地域全体のブランドを設立。新たな加工商品の開発なども行いました。
ブランドロゴの風見鶏は鶏ではなく、ソイという魚です。地域では神事に使われる魚で、地産地消という意味では価値の低い魚。価値を感じないものにもしっかり方向性を見出し、北三陸という地域から世界に発信できるようなブランディングをしていこうという思いが込められています。
北三陸産のブランド化を通じて、地域の人々との協働を模索
水産業ビジネスでは新参者なので、起業から3年目くらいまでは地元の生産者に相手にされないこともありました。ですが、自分の信念がぶれなかったことも功を奏して、時間が地元生産者との関係性を解決してくれました。
一方で、大企業の名前が地元との関係性構築の後押しとなりました。「キリンさんがこの地域を支援しているから、皆さん一緒にやりましょう」と言うと、すっと入ってくれる。それまで関係を持てなかった漁業協同組合や漁師に仲間に入ってくれとお願いして一緒に活動した結果、仲間がどんどん増えていきました。大企業の伴走的な支援のお陰で、地域の人たちも変わってくれたのだと思いますね。
仮に、自分が資金を持っていて一緒にやろうと言っても、手をつなぐ人は少ない。地方の場合、一人勝ちという目で見られるのが一番よくない。いかに一緒にやるというスタンスをつくれるか。地域全体の利益につながるというのがしっかり見えれば、自然と周囲の目が変わってくる。地域全体で見える利益をどうつくっていくかが大事なんだと思います。
国内外から人を呼び込む。地域活性化の拠点づくりを視野に
2016年に、公益財団法人三菱商事復興支援財団から出資、株式会社北日本銀行から融資を受け、「北三陸ファクトリー」の水産加工場が完成しました。1年半前までは給食センターだった施設を町から借り受け、加工場に改装し、設備を導入。ここから商品を国内や海外に出荷できる環境が整いました。次は、収穫時期の繁忙期だけでなく、年間を通じて従業員の雇用を拡大していきたい。そのためにも出荷量をもっと増やしていきたいと考えています。海外展開では賞味期限の課題もありますが、鮮度を長く保つための研究も大学の先生と進めています。
また、青森県八戸市から宮城県石巻市あたりまで三陸沿岸道路が通っているのですが、この洋野町に商業施設兼宿泊施設兼加工場をつくり、インバウンドにつなげていきたいと思っています。実は、台湾からのインバウンドの受け入れも少しずつ始めています。
三陸は自転車のツーリングルートにもなっているのですが、外国人の方に自転車で立ち寄っていただき、生きたウニを食べてもらうということも。加工場だけでなく、食事もできて買い物もできるという拠点づくりを、3年後には六次産業化ファンドなどの資金を投入して実現したいですね。
トップブランドをつくるのがミッション。日本の食材を広めるのが次のステージ
現在36歳ですが、40歳までは地域のために仕事をしたいと考えています。40歳以降はここにいないというのが理想で、現在の立場は他の人に任せて、自分は海外でプレイヤーとして日本の食材を広めていく仕事をするというのが夢です。
生産者が起業当時とは自分に対しての接し方が変わってきているのを実感していますが、何か期待してくれているからこそ、それに応えたい。最大限仕事をさせてもらいたいと思う一方で、40歳以降は違う展開をつくっていきたい。東京にも海外にも支店をつくりたい。そうなると、扱う食材も三陸だけでなく日本のよいものとなり、仕事の幅ももっと広がるのだと思います。
いいものを自分らがつくるという誇りを感じてもらえるのがブランドの創造。ブランディングがなされると、自動的に食材の値段も上がり、後継者も増えてくる。飯が食えないから後継者が不足するという悪循環を変えられる。ブランド化がすべてにつながっていくのではないか。だからこそ、トップブランドをつくるのが自分のミッションです。現段階は未だ緒についたばかり。やっとスタートラインに立ったという感覚なので、まだこれから挑戦が続きます。
株式会社ひろの屋 代表取締役
下苧 坪之典さん
岩手県洋野町出身。大学卒業後、自動車メーカーの新車ディーラーで営業、ソニー生命保険株式会社の営業、コンサルタントを経験した後、故郷にUターン。曽祖父、祖父、父へと受け継がれる生業を引き継ぎ、2010年に株式会社ひろの屋を創設する。2013年に北三陸の食を日本、そして世界に届けるプロジェクトとして、「北三陸世界ブランドプロジェクト実行委員会」を設立し、実行委員長に就任。地域産品のブランド化とともに、地域の活性化、持続可能な水産業の取り組みに果敢に挑戦している。