歴史に残る偉業を成し遂げた人物たちの意外なSelf Turnについて学ぶ「あの人のセルフターン」第1回は、多彩な職歴を持つ松尾芭蕉について和光大学表現学部、総合文化学科教授・深沢眞二(ふかさわ・しんじ)さんにお伺いしました。 みちのくや北陸の情景を五七五の十七文字の俳諧の発句(ほっく)に閉じ込めた紀行文の名作『おくのほそ道』を紡ぎ上げた松尾芭蕉は、農家の生まれでした。当時の農民に「読み書き」の手ほどきを受ける機会は少なく、彼が農民のままなら芭蕉という江戸俳諧の巨匠は存在しなかったでしょう。ただ、彼は伊賀藤堂家の若様に仕えたことから俳諧の世界に足を踏み入れ、30代の頃には3つの仕事を掛け持ちしながら感性と技術を磨き、独特の表現世界を築き上げていきます。
料理人のかたわら俳諧に親しむ
松尾芭蕉の生誕地は、現在は三重県である伊賀の国です。1644年、農家の次男として生まれ、幼名は金作(きんさく)でした。
実のところ、芭蕉は農家の次男であったことが幸運でした。『風雅と笑い―芭蕉叢考』(清文堂出版)ほかの著者であり、和光大学表現学部の深沢眞二教授によれば、松尾家は伊賀と伊勢を治めていた藤堂家とつながりがあり、それがやがて俳諧師となるきっかけとなったようです。
「松尾家は城下町に家を持つ農家で、伊賀上野城に農作物を納入したのではないでしょうか。農民であるのに姓を持っているのは、準武士待遇を受ける『無足人』と呼ばれる農民だったからで、戦さの際は刀を持つ兵力として考えられていたようです。
農家の次男であった金作は、いずれ松尾家を出ていかなければならない立場にありました。農作物を納めていた関係もあったのでしょう、十代の頃に藤堂家の奉公人になります。「料理関係の仕事をしていた」という記録が伝えられており、料理人として、武家屋敷で包丁を使って食事の用意をしていたのは確かなようです。
藤堂家には金作より2歳年上の跡継ぎ、良忠(よしただ)がいました。良忠との出会いが俳諧師、芭蕉の出発点となります。
「当時は、大名・旗本の家の当主や若様が俳諧、今の言い方にすれば連句で遊ぶことが流行していました。良忠も京都の北村季吟(きぎん)という有名な俳人から、手紙のやりとりなどを通して俳諧を学んでいました。年齢が近い芭蕉は良忠の相手をし、季吟の教えを知るうちに俳諧に親しむようになったと考えられています」
この頃の俳号はまだ芭蕉ではなく『宗房(そうぼう)』というもので、21歳の時に初めて『佐夜中山集(さやのなかやましゅう)』という俳諧集に2句が掲載されました。
江戸に下り、3つの仕事を兼務する
芭蕉が23歳のとき、藤堂家の良忠がこの世を去りました。年の近い奉公人として仕え、俳諧をともに楽しんだ若様の死は芭蕉の生き方を変えます。やがて藤堂家の料理人をやめ、新たな一歩を踏み出しました。
「一つの転換期は29歳のときです。『貝おほひ』という句集を編み、伊賀上野の菅原社に奉納してから江戸をめざします。当時はまだ無名の俳人でしたが、この本は3年後に江戸で出版されていますので、一定の反響はあったと考えられます」
江戸に下った芭蕉は3つの仕事を掛け持ちしていました。
一つは今で言う事務員です。芭蕉の江戸での身元引受人と考えられる小沢太郎兵衛(たろべえ)は、京都の俳人、季吟を通じて知り合った人物で、町の役人である「名主(なぬし)」でした。「読み書きそろばん」ができた芭蕉はそこで、町政に関する書類の作成や整理を担当していたようです。
もう一つは、神田上水の浚渫(しゅんせつ)作業に必要な人出を手配する仕事でした。「浚渫」とは「水底をさらって土砂などを取り除くこと」で、現代に置き換えれば上水道施設の管理が近いかもしれません。浚渫作業は江戸の各町が分担しており、芭蕉は人手を集め「何日にどこそこに行って作業せよ」という指示を出す人材派遣業のような業務を担っていました。
3つ目の仕事はもちろん、俳諧にかかわるものです。「桃青(とうせい)」と名乗り、「点者(てんじゃ)」、すなわち俳諧の先生としての人生を送っていました。
「芭蕉にとっての最大の顧客は、磐城平藩の内藤家でした。江戸にあった屋敷に出入りしています。五七五と七七を繰り返す形で共同制作する俳諧の興行にはある程度の人数が必要です。芭蕉はお殿様が主催する俳諧の会のメンバーだったようです。一方で、下級武士や町人に対しての指導や添削も行っていました。当時の俳諧は社交に必要な基礎教養でしたが、芭蕉は仲間同士が集まって俳諧をうまくつけていくにはどうすればいいかといったことを教えていました。複数の人間で楽しむ趣味のポイントを指導するという意味では、現代における麻雀教室の先生がイメージ的に近いと思います」
40歳を目前に、文芸にとことん打ち込む道へ
のちに自ら記しているように「仕官懸命」の思いが強かったようですが、37歳の冬、突然「隠居」の道を選びます。点者の生活に終止符を打ちました。
実入りの良い仕事を捨てて創作活動に専念する。そこには並々ならぬ決意があったはずです。38歳のとき、江戸の繁華街から隅田川をはさんだ不便な深川に転居して、それまでの「桃青」という俳号とともに「芭蕉」という名前も使い始めました。夏になると芭蕉の木が生い茂る深川の住まいが「芭蕉の庵」と呼ばれるようになったためです。
禅僧への憧れも持っていた俳人は「芭蕉」と名乗り始めるのと時を同じくして、文芸的な遺跡を行脚(あんぎゃ)し、巡礼しながら俳諧を読む、という生き方を選択します。名作『おくのほそ道』に代表されるような俳諧紀行文は、それ自体で収入を得ようと思ってつくられたわけではありません。旅の間は各地の俳人に俳諧の指導をして行脚の資金を得ていました。
「芭蕉自身には『おくのほそ道』を出版する気はありませんでした。実際、生きている間には本として世に出ていません。紀行文は、創作に生涯をかけることを最終的に選んだ芭蕉の、純粋な文芸的追求といえると思います」
1694年に50年の人生をまっとうした後、芭蕉の評価は確固たるものとなります。何気ない日常のなかにある心打つ情景をわかりやすい表現で深く描写する、最晩年の「軽み」の境地は、その後の俳諧の表現を一変させました。自分が本当に求める表現にこだわり、文芸にとことん打ち込む――40歳を目前に下した不退転の決意とその行動力が、松尾芭蕉を松尾芭蕉たらしめたのです。
\教えてくれた人/
深沢眞二(ふかさわ・しんじ)さん
和光大学表現学部、総合文化学科教授。1960年山梨県生まれ。専門分野は連歌俳諧研究。京都大学文学部国語国文学科を卒業後、同大学大学院博士課程で学んだ。国文学研究資料館の文献資料部助手を務めた後、1993年から和光大で教鞭をとる。著書に『風雅と笑い―芭蕉叢考』『旅する俳諧師―芭蕉叢考 二』(ともに清文堂出版)、『連句の教室: ことばを付けて遊ぶ』(平凡社新書)など。2015年には三重県伊賀市・芭蕉翁記念館の選考によって優れた俳諧研究者に贈られる文部科学大臣賞を受賞した。