2015年末、川那辺成樹(かわなべしげき)さんは、郷里の滋賀県守山市で自家焙煎の珈琲店「cafe&roasting 米安珈琲焙煎所」をオープン。店主自らが選りすぐった豆を焙煎し、ハンドドリップして提供するお店です。東京で産業心理カウンセラーとして働いていた店主が、なぜ全く違う世界に飛び込んだのか。その答えからUターンの意義を見出せそうです。
愛しきわが町で、曾祖父、祖母の意志を受け継ぐこと
開口一番、「私は珈琲通でもマニアでもないんです」と語り始めた川那辺さん。一般的に珈琲店を開く場合、店主が珈琲に心酔しているか、趣味が高じて……といったパターンをよく耳にします。しかし川那辺さんの場合、店を開いたきっかけは故郷・守山市にあったといいます。
時を遡ること曾祖父・安次郎氏の時代。当時は安次郎氏が米屋の店主だったことから「米(屋の)安(次郎)」という屋号で営んでいました。そして代が変わると祖母が主となり、町の駄菓子屋として子どもたちに愛されるようになりました。
曾祖父の時代は、日本人に必要不可欠な米を売るという社会のインフラとして活躍し、祖母の代は子どもたちの遊び場として、地域コミュニティの役割を担ってきました。曾祖父も祖母も業種は違えど、地元に必要とされる大切な使命を背負っていたことに変わりはありません。そして川那辺さん自身も先代の意志を継ぐべく、今の時代に合わせるかたちで、地域のコミュニティの場として珈琲店を開いたというわけです。
そしてもう一つ、地元での開業を決定づけたのが「川那辺」の名字。14世紀に守山市の中心部・金森町を治めていた一族・川那辺氏が自身のルーツであることから「守山市に強い愛着がある」と話します。
自分を育ててくれた愛着のある土地で、町の支えになりたい――。そんな思いが「米安珈琲焙煎所」の根底に深く根ざしています。
一冊の本との出合いが独立のターニングポイントに
「地元に貢献する」とはいうものの、そのかたちがなぜ珈琲店だったのでしょうか。産業心理カウンセラーの時代からコミュニティの場をつくる夢を描いていた川那辺さんが、あるとき出合った一冊の本があります。
その本とは『カフェを100年、続けるために』。日本屈指の珈琲の名店「カフェ・バッハ」の店主であり、業界の生きる伝説とも称される田口護氏の著書です。
「この本の“カフェは地域に必要な存在”という考え方に衝撃を覚えたんです。自分が目指しているものは、まさにカフェだったんだって気がついた瞬間でした」
しかし前述の通りカフェとは無縁の職業に従事していたため、珈琲や開業の知識はほぼ皆無。
「店を開くには自分の力だけでは到底無理だとわかっていたし、私には誰かの助けが必要だったんです」
“社会のインフラ”の役割を果たした曾祖父や、“子どもたちの社交場”を提供し続けた祖母の生きざま、そして自身が考えていた将来のビジョンが、田口氏の考え方とまさにシンクロしていたことから「助けを求めるなら田口氏しかいない」と心に決めていたそう。
まずは自分の想いを伝えなくては、と田口氏と面談し「“地域密着型”のカフェを開きたい」と熱く語った川那辺さん。その想いを理解してくれ、晴れてカフェ・バッハで修業をスタートすることになりました。
こうして東京で1年、そして守山市に戻った後も月に一度、泊りがけでカフェ・バッハへ通い詰めること約2年半。田口氏が「OK」を出すまでひたすらに研鑽を重ね、焙煎のノウハウから経営までをみっちり頭と体に叩き込んだそう。
独立までの道のりが遠かったから、いまの“米安”がある
東京と守山で長い修業を乗り越えた川那辺さんですが、守山市での毎日は修業だけをしていたわけではありませんでした。
カフェ・バッハで手ほどきを直接受けられるのは、月に一度。それ以外は地元で過ごすことになるため、田口氏から「地元で働いて生活を安定させながら、修行を続けなさい」と諭されたそう。それは常日頃から「修業半ばの中途半端な技術や知識では成功できない」と口を酸っぱくして言われていたから。
そこでカウンセラーを退職後、東京のハローワークで就職先を探すことに。
すると川那辺さんの経歴を知った職員から、「(守山市の求職を管轄している)滋賀県草津市のハローワークで相談員を募集しているから働いてみては」と打診があったそう。そこで産業心理カウンセラーの経験を活かし、若者向けの就職相談のアドバイザーとしてハローワークに勤務することになりました。
そして休日は守山市内で開催される多数のイベントに出店し、珈琲を販売。出店はカフェ・バッハで培った修業の成果を試す絶好の機会であり、地元の人々と知り合うきっかけになる場にもなりました。
来場者とコミュニケーションを図りながら「どのような珈琲が好まれるか」「自身の珈琲はどのような反応があるだろうか」などと手探りでトライ&エラーを繰り返し、少しずつ顧客を開拓。
「あのときの出店を振り返ると、もしも田口から学んだノウハウだけですぐにオープンしていたら、いまの米安珈琲焙煎所はなかったと思いますね。開店前に顧客を獲得できたことは、すごく大切なことだったと実感しています」
現に店の常連客の中には、イベントに出店していた時代から通い続けているファンもいるのだとか。自分の珈琲の味を気に入ってくれている人がいること。たとえそれがわずかであっても、第二の人生を歩もうと奮起する川那辺さんにとっては、何よりも心強い味方であったに違いありません。
ハローワークで平日働き、休日は地元のイベントで腕試しを重ね、月に一度師匠の店で修業に励む。そんな“まわり道”をしながらたどり着いた珈琲店の開業。しかし川那辺さんの本当の目的は珈琲店の経営に留まりません。
珈琲店が人々の交流のきっかけになるということ
「私の最終的な目標は“お客様が、うちの店のカウンターに座りに来ること”なんです。カウンターの肘掛け椅子に腰を下ろして、ただぼーっと時間を過ごしたくなるというか。ちょっと話をしに来たくなる店というか。私が珈琲店という場所をお客様に提供することで、会話をしに来てもらいたいと思っています」
その目標を具現化した“もの”が「カウンター」。一枚板の直線的なテーブルをイメージしがちですが、米安珈琲焙煎所のそれは、ゆるやかに孤を描いたアール型。
店主と客のコミュニケーションはもちろん、テーブルの曲線に沿って椅子をセッティングすることで客同士が顔を合わせやすくなり、自然に会話を生みだす効果も狙っているのだとか。
実は取材でお邪魔したときも、ふらっと立ち寄り、カウンターで珈琲を飲んで帰っていく常連客が後を絶ちませんでした。ある人は、お店の雰囲気までも堪能するかのようにゆったりとくつろぎ、また別の人は店主と一言、二言会話を交わし珈琲を味わう。
店主が語るように、お店のカウンターはまさに人々のコミュニティの場として機能していました。
「商売とは、常に目の前のお客様と向き合うことだと思う」
最後に、勤め人から独立・開業し、Uターンを果たした川那辺さんに、UターンやIターン、独立を希望している人へ向けてのアドバイスをお願いしました。
「UターンやIターンといった自身の背景は、お客様には関係のないこと。どんな商売でも同じですが、やはり基本は目の前のお客様が何を求めていて、自分が何を提供できるかを自覚することだと思います」
川那辺さんのように、その土地で求められる、自分がなすべきことを果たすことがUターンの醍醐味であり、顧客が求めているものが何なのかを理解し、入念に準備をすすめてきたことが独立を成功に導くカギになるといえそうです。
川那辺成樹(かわなべ しげき)さん
1970年、滋賀県守山市生まれ。大学卒業と同時に上京し、産業心理カウンセラーとして活躍。その後、カフェの名店「カフェ・バッハ」にて、田口護氏に師事。構想10年、準備期間4年を経て、2015年12月、郷里に「 cafe&roasting 米安珈琲焙煎所 」をオープンした。